■消えゆく事■


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 日曜日。

   私は携帯電話を片手に図書室に向かっていた。
 日曜日の夕方の学校は、部活動で賑わっていておかしくないにも関わらず人の気配が感じられない。
 廊下に私の足音だけが響く。
 歩きなれた図書室までの廊下に立ち込める空気が重く、これから起こる最悪の状況を想起させた。
 図書室の前まで来ると、鍵も出さずに引き戸を開けた。
 図書室に入るといつもの様に紙の匂いが鼻を突く。
 そして誰も居ない筈の部屋。

   ――いや。

「来てくれたんだね。ヌシ様」

 『日下 月夜』がそこに居た。
 分かってはいたが私は息を飲み、彼女から着信があった携帯電話を強く握り締める。
 振る舞いはいつもと変わらない。長い髪を掻き揚げる仕草、お日様のような笑顔。
 ただ、どこかが作り物のような『彼女』。
 それに、何よりも気配が無い。

 ――存在が感じられない。

 嫌な。感覚。
 空っぽになった器のような、枠だけがあり中身が伴わない。そんなちぐはぐな印象。
 私は、これに似た感覚を良く知っている。
 『眷属』。
 『超越者』に存在を喰われ、その空っぽの器を操られる人形の事だ。
 ぎり。と頭の奥で何かが軋む音がする。
 それが私が強く奥歯をかみ締めた音だと言う事に気付くのに少し時間がかかった。
「どうしたの、豊玉さん?」
 日下さんの枠をした人形が心配そうな顔をして声をかけてくる。
 私は。
 私は――。
 ――私はっ!
 私は拳で図書室の貸し出しカウンターを殴りつけた。
 既に世界から排除された少女の笑顔に、自分の意思を奪われた人形に、吐き気がする。
「ヌ、ヌシ様っ!?」
「……あなたの親はだれ?」
 怒りが今にも体を引き裂いて溢れ出しそうだった。
 親。とは、つまり『彼女』を『眷属』へと変えた『超越者』の事だ。
 『少女』は答えない――当然だ。自分の意識などないのだから、答えられる訳がないのだ。
「わかんないんだ。わたしも」
 その言葉に視線を床に向けていた私は、はっと彼女を視界に入れる。
 私と視線が合うと、『少女』は困った様な顔で笑った。
「……意識が有るの?」
「無い方が良かったかも」
 『少女』は悪戯しているのを見つけられた子供の様に舌を出して言う。
「正直、誰もわたしの事憶えてなくて泣きそうになった」
 良く見てみれば、彼女の目元はどこか腫れぼったい。本当はずっと泣いていたのだろう。
「でも、ヌ、あはは。豊玉さんは憶えててくれてよかった。お母さんだってわたしの事わかんなかったのに」
 ぐ。と『少女』は下唇を噛む。
 自分の事を母親が分からなかった時の事を思い出したのだろう。『少女』の表情に悲痛な影が差す。
「わたし……どうなっちゃうのかな?」
 不安そうな声が静かな図書室の中に響く。
 私には、『少女』を安心させてあげられる言葉が思いつかない。
 ただ、事実を――
「――あなたは、この世界に最初から居なかった事になる」
 私が口を開くと、『少女』はびくりと大きく震えた。
 私は……それでも残酷に続ける。
「そして何故あなたが、自分の意識を無くしていないのかは分からないけれど、あなたはあなたを今の状態にした人間の意識に飲まれて――」

 ――人を喰らうようになる。

 重い沈黙が図書室を支配する。
 小鳥のさえずりが耳に届く。
 でも、それ以上に私には心臓の鼓動がうるさく聞こえた。

「彼も……忘れちゃうのかな」

 息苦しくなる程の沈黙の後、『少女』はポツリと呟く。
 それにこくりと頷き肯定する私に、力無く笑い「そっか」と口にした。
「豊玉さん。わたし……弟が居たみたいなんだ」
 急に『少女』が呟く。
「わたしも、弟の事忘れてたみたい。酷いお姉ちゃんだよね」
 私は『少女』の言葉に応えられない。ごくりと、私の喉が鳴る。
「弟はね、ちっちゃい頃から心臓が悪くてさ。殆ど病院に入院してたの」
 私はその事を知っている。その弟の最後を看取ったのも私なのだから。
 彼女の弟をこの世界から消し去ったのは――私なのだから。
「いい子だったんだ。でも、お父さんもお母さんも弟の事を忘れてた。これって――」
「――そう。あの子も今のあなたと同じような状況だった」
 『少女』が言い切る前に、私が言葉を継いだ。
 覚悟を、決めて。

 ――私が消した。

 俯いていた『少女』の目が大きく開かれ、その視線は私に注がれる。
 私の事を恨んでくれて良い。私の事を憎んでくれて良い。罵ってくれて良い。

   私はあなたも消さなくちゃいけないから。

 心の中でそう言い、私は『少女』の視線を真っ向から受け止める。
 時計の秒針が進む音だけが、静かな図書室の中に響く。
 どれくらい時間が経ったのだろう。
 『少女』はいつまで正気を保っていられるのだろう。
 私は、いつ。この『少女』を――

「そっか、良かった」

 私が自分の思考に沈みそうに成った時、『少女』は私に向けて笑顔で言った。
 良かった……?
 『少女』の言葉の意味を、私は理解できなかった。
 戸惑う私をよそに、彼女は続ける。

「弟を止めてくれて、ありがとって事」

 彼女は、いつもの太陽の様な笑顔でそう言った――。


 ――そんな人たちが居るんだ。

 私が一通り話終えると、日下さんはそう呟いた。
「すっごく驚いた」
「そんな存在が居るなんて、直ぐには理解できないとは思う」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
 日下さんが何を言いたいのか分からず、首をかしげていると彼女はくすりと笑って続けた。
「ヌシ様って、意外とちゃんと喋れるんだなぁって」
 私がその台詞に眉を寄せると、少女は「ごめんごめん」と、心にも無さそうな事を口にした後、ぼんやりと中空を見つめていた彼女は、私に向き直って真剣な顔を向けた。

 ――ヌシ様に任せていいかな。

 ――――。

 不意に言われた言葉に、私はとっさに応えられなかった。
「わたし、誰かの存在を食べてしまうものにはなりたくない」
 そうなる前に。
「――任された」
 少しの躊躇いと少しの迷いを隠せただろうか。
「約束は、守る」
 迷いを振り切るかの様にそう続けた。
 自分に言い聞かせる為に。
 私の言葉に、日下さんは満足げに頷き「ありがと」と言った後、窓の方に視線を逃がし、
「じゃ、さ。彼のことも、頼んで良い?」
 そう、ぽつりと言った。
「豊玉さんが言ってた私の『親』って言うのが、誰かは分からないんだけど――その誰かが彼に執着しているのは感じるんだ」
 『超越者』と『眷属』の共感応というヤツか。
 通常ならば自意識を失った『眷属』に対して、『超越者』が一方的に感覚共有を持つ物らしい。
 だが、日下さんは自意識を保っている為、有る程度『親』の思考、感情を不完全ながら感じ取れると言ったところだろうか。
「だから――彼を守って」
 そう言って振り返った日下さんの大きな瞳に涙が溜まっていた。
「わたしがぁっ……一緒に居たっ、いけど。ずっ、と一緒に居たいけどぉっ、駄、目っだからぁ」
 私の胸に縋りつき、しゃくりあげ言葉も切れ切れになりながら、少女は必死になって言葉を紡ぐ。

 ただ――彼の為に。

   ――忘れられるのはヤだよぉ。

 涙と共に呟いた少女のその言葉が、私の胸をきつく、きつく締め上げる。
 自分の中に生まれたその痛みに耐えるかのように、縋りつく少女の肩を強く抱きしめた。

   ――波紋。

 私の心に静かに満たされていた水に大きな波紋が広がり、私の心を揺らがせる。
 その波紋は水面を震わせ、小さなさざ波をたてながら私の心をゆっくりと侵食していく。
 あの時のような。
 お父さんが死んだときのような。
 お母さんのあの言葉を聴いたときのような。
 ともすれば気付けないくらいの小さな痛みを伴いながら、少しずつ心を食い尽くされていくような感覚。

 その波紋が、私の心を大きく震わせる。
 だから。私は。

「彼は――」
「お前の事忘れちゃいねぇぜ」

 私が口を開く瞬間、図書室の扉の方でそんな声がした。
 振り向くと彼を連れ、扉に凭れかかった先輩が立っている。
 先輩の後ろに立つ彼は、どこか切なそうな、どこか悲しそうな瞳で『少女』を見つめていた。
「っぅあ……」
 彼の姿を認めた『少女』は苦しげな呻き声を上げた。
「月夜っ!」
「馬鹿っ! 近寄るんじゃねぇっ!」
 彼と先輩の声がほぼ同時に図書室に響いた瞬間。
 何かが潰れる様な鈍い音と共に、彼の脇腹に大きな穴が開く。
 彼がその場に崩れ落ちる乾いた音。
 図書室の床に広がる赤い水溜り。
 自分のした事に理解できない『少女』の悲痛な叫び。嘆き。
「あぁああっぁぁぁぁあああぁっかぁあぁ」
 獣のような咆哮をあげながら、『少女』は私と脇を通り抜け先輩を押し倒し廊下へと逃げ出した。
 先輩は舌打ちをして起き上がると『少女』を追った。
 私が彼に近寄ると、既に息も絶え絶えでいつ死んでしまってもおかしくない。
 今更ながら『天津』に連絡せずにここに来てしまった事を悔やむ。
 ここまでの傷を治癒できるのは私の知る限りテルしか居ない。
 間に合わないと思いながらポケットから携帯を取り出し、テルの番号を呼び出すと背後で着信音が鳴った。
「ボクに用かい?」
 振り返ると、どこか困ったような笑みを浮べたテルが携帯電話を片手にそこに居た。
「彼の傷を治せって言うのかい?」
 ボクの言いたいことは分かってるだろうと言いたげに、私の視線を彼女は真っ向から受け止めた。
 テルの視線はいつになく厳しく、どこか皮肉っぽい。
「日下さんの存在が消えれば、彼は傷一つなく、明日からまたいつも通りの学園生活を送れるんだよ? ここで彼の傷を治すのは力の浪費に過ぎない」
「分かってる。でも、テルはここに来た」
 わざわざ姿を現さず、見捨てる事も出来たのに。
 それなのに、ここにいる。
「それでも……テルは彼の傷を治しに来たんでしょう?」
 いや、このタイミングで現われるということは、ずっと私たちを監視していたはずだ。
 先輩と私と彼。そのうち誰を監視していたかまでは分からないけれど。
 私の言葉にテルはため息を吐き「そうだよ」と苦笑交じりに言った。
「豊玉さんと先輩がここまでやったんだ。中途半端に終わらせたら二人の気がすまないだろ? だったらやれる所までやって貰って、納得してもらった方がいい。納得できる結末は迎えられないだろうケドさ」
 自嘲気味に言いながら、テルは彼の傍に膝をついて手を翳す。
 心配そうに見る私に「直ぐ終わるよ」とテルはさらりと行った。
 テルが翳した手がぼんやりと光ると、まるで時間が巻き戻るかのように、零れ落ちた血が、肉が彼の脇腹を埋めていく。
 1分も掛からなかっただろうか。
 終わった時には彼の脇腹の傷はともかく、風穴の開いた制服まで綺麗に修復されていた。
 傷が治ったのを確認し、テルはため息を吐いた後、彼に馬乗りになり手を振り上げる。
 次の瞬間。びちぃっ! と彼の頬を平手で打った。
「っっっ!?」
 突然の行動に混乱する私を余所に、テルは繰り返し彼を平手で打つ。
 打つ度に図書室に音が響いた。
 一回目の平手打ちで彼は目覚めていたようでは有るのだけれど。
「ほらほら、寝てる場合じゃないだろ?」
「ちょ、いっ、ぶっ、いてっ」
「ほら、早く目を覚まさないと」
「お、おきってっ、起きた! やめっ!」
「おや、起きたのか。残念だよ。馬乗りになって男の子を見下ろすのは中々ゾクゾクしたんだけど」
 確信犯だった。
「てめぇっ!」
 彼は馬乗りになっているテルを押しのけようと手を伸ばす。
 しかし、テルはその手を掻い潜って馬乗りになったまま彼の襟首を掴み顔を寄せる。
「覚悟はあるかい?」
 息が掛かるほどの位置で、囁くように彼に言う。
 目を覚ました途端の平手打ちに続く質問に彼は戸惑った表情を見せた。
 テルはそれには構わず、続ける。
「キミは彼女の最後を見届ける覚悟が有るのかと聞いてるんだ」
 静かに、しかし怒りを押し殺した重い問いかけ。
 その問いかけに、彼は静かに応えた。
「――あぁ、じゃないと俺は後悔する」
 は。とテルは笑い、彼から離れて立ち上がる。
 廊下側から差し込む夕陽がテルの顔に影を落とす。
「そうかい。なら、精々後悔しないようにするんだね――ボクは疲れた。クライマックスはキミ達に譲るよ」
 瀕死の人間を一人蘇生させるのは結構大変なのさ。そう言って、図書室から出て行こうとする。
「テル……ありがと」
 テルの背中に投げた私のその言葉に、ふ、とテルは笑みを浮べて図書室を去っていった。

 そして、テルが図書室から消えたのを計ったかのように、轟音が響いた――。