■悲しい思い出■


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「ヌシ様〜」
 ……私は聞こえない振りをする。

「ヌシ様、今から図書室? 今日私も当番だから一緒に行こ?」  彼女は隣に立って歩き出すが、私は文庫本に目をやったまま見ない振りをする。
 あの日以来、日下さんは事有るごとに私を『ヌシ様』と呼ぼうとした。どうやら、周りに広めて『ヌシ様』という呼び名の自治権を得ようとしているらしい。
 私はその自治権を決して認めるつもりは無い。ちゃんと名前を呼ぶまで、相手にしない事に決めてもう三日だ。何事も最初のしつけが大事だと私は思う訳である。
「豊玉さん……」
 文庫本から目を離さず呼びかけに反応しない私に、やっと諦めがついたのか名前で私を呼んだ。それで私は彼女を振り返る。
 で、何? と言う風に首を傾げる。少し怒ったように見えただろうか。
「あ、ん……」
 なんでちょっと色っぽい声を出すのか。
 日下さんはそんな呻きをあげてから続ける。
「だから、一緒に図書室行こって」
 呼び止めた時の言葉をもう一度繰り返して彼女は笑った。それに釣られてか、つい私も笑みがこぼれる。
 私の笑みを目ざとく見つけ、彼女は機嫌よさそうに私の腕に腕を絡ませ「早く早く」と図書室へと引っ張って行く。
 私のどこを気に入ったのかは分からないけど、出会ってからずっとこんな調子だ。今日は図書室の当番だと言ってたけど、当番とか関係なく図書室についてくる。
 まぁ……悪い気はしなかった。

 でも。

 ――彼女は覚えていないのだ。

 自分に弟が居た事を。

    ――彼女は知らないのだ。

 私が彼女の弟を消し去ってしまった事を。

 だから私にこんなにも無邪気な笑顔を見せる。
 ずきりと胸が痛んだ。今まで、こんな後ろめたさを感じた事は無かった。
 だけどそれは多分、私の直ぐ近くに『超越者』の関係者が居なかったからなのだろうと今になっては思う。
 むしろ、私自身が避けていたのかもしれない。
 今まで何人も何人もこの手で消してきたと言うのに、それとちゃんと向き合った事がなかったのだ。
 自分の罪から目を背けて必死で自分の世界を守る事しか考えていなかったのだ。
 私は……卑怯だ。
 図書室のテーブルで差し向かいに座る彼女を見上げる。私の視線に気付いた彼女はにこりと笑みを返す。私は冷静を装って再び手元の文庫本に視線を落とした。
 ――日下さんも容疑者の一人だと言う事さ。
 彼女が? 
 不意にテルの言葉を思い出す。彼女は暴行未遂で済み、実際には被害を受けては居ない。だとしたら、彼女が犯人と言う可能性は低いのではないだろうか。他に被害を受けた六人の少女の誰かが犯人である可能性のほうが遥かに高いはずだ。
 ……それは、私の希望だな。
 心の中で呟く。
 日下さんは、既に弟が『超越者』だった。傍に『異能力者』が居る場合、その力に無意識の内に影響され『覚醒』しやすいとテルから聞いた事が有る。
 恐らくそれもあって、テルは日下さんを容疑者と定めたのだろう。
 多分……かなり高い可能性として。
 私に接触するタイミングがあまりにも良すぎるのだ。
 今まで話した事も無かったのに、弟が『超越者』と成り、世界から消えた途端。そして、三人が行方不明になった当日の朝になぜ私に話しかけてきたのか。勘繰ればいくらでも怪しめる所はある。
 もしかしたら『少年』に『力』を与えたのが彼女で有る可能性も考えられる。
 彼女が『少年』の健康を願い、強く求めたのであれば……決してありえない事ではない。
 でも――私は信じたい。
 と、そう思う。
 多分。私は彼女のことが好きになって来ているのだろう。……もちろん友人として。
「ん……」
 と、日下さんが呻き自分のカバンをがさごそとし始める。カバンから取出したのは、可愛いストラップ……訂正。あまり可愛いと一概に言えそうで言えないストラップのついた携帯電話を取出した。変わった趣味をお持ちのようだ。
 そしてもう片方の手には私の携帯が……いつの間にっ!?
「はい。豊玉さん」
 私が驚いているのを傍目に、彼女は私の携帯を差し出した。
「えっへっへ。わたしの携帯の番号入れといたから」
 ……こくり。一言言えば良いのに。
 私が携帯を受け取ると、日下さんの携帯がメールの着信を告げる。あまり良くは知らないけれど、最近CMでよく流れている流行の女性アイドルの曲だ。
「あ、ヌ、豊玉さん。ごめん呼び出されちゃった」
 今、ヌシ様って言いそうになったでしょう? そんな事を思い眉を顰める。
「あはは。は、は。えへへ〜」
 おかしな笑いで誤魔化された。
 日下さんは携帯を両手で握りながら不自然な笑いを浮べている。
「彼が一緒に帰るぞって」
 いそいそとテーブルの上の本を片付け始める日下さん。好き好きオーラが辺りに放出されいる。余程好きなんだろうな、彼氏の事。そんな事を思って私は苦笑を浮べた。
「王子様なんだよ? わたしの。ピンチになったら助けてくれるの」
 そんなメルヘンな事を言いながら、彼女はほんと太陽みたいに笑った。にこにこ〜っと言う擬音が聞こえてきそうだ。
 彼女はカバンを手に持って立ち上がり、私に「また明日ね。豊玉さん」と手を振りながら去っていった。
 無意識の内に手を振り替えしていた自分の手をテーブルの上に戻し、私は読書に戻った――。


  ◇


「あ、お姉ちゃん。おかえりー」

 玄関で靴を脱いでいると、キッチンから妹が顔を出し私を出迎えた。
 こくり、と私は頷いて返す。
「先ご飯にする? お風呂も沸いてるよ? それとも、あ・た・し?」
 ……いつもながらの出迎えに、私は眉を顰める。
「あはは。冗談だってばお姉ちゃん。先ご飯ね、その後お風呂。はい、決まり〜」
 私の方を指差し、帰宅後の私のスケジュールを決定した。
 豊玉 緋姫(とよたま ひめ)。
 私には勿体無いくらいのよく出来た妹だ。
 十年前の事故でお父さんを失い、お母さんが生活の為に働きに出るようになってから、家事の一切は緋姫が取り仕切っている。三駅向こうのミッション系の女子高に通っており、まっすぐ家に帰って来て家事全般をこなしてくれているのだ。
 まだ、友達と遊びたい年頃だろうに。
「ほら、早く着替えてきなよ」
 私の心の声を掻き消すかのように聞こえる緋姫の声に、急かされるように私は階段を上った。
 部屋に入ると鍵をかけてため息を一つ。
 油断をすると緋姫が私の着替え中に侵入してくるからだ。その所為で部屋に入ったら直ぐに鍵をかけるのが癖になってしまった。
 私は制服を脱ぐとハンガーにかけて下着姿になると、やっと涼しくなった。
 ただ、下着が汗でしっとりと湿っていて気持ち悪い。とりあえずブラを外してその拘束から解放される。
 ……そう言うほど大きいわけではないけれど。
 誰に対する言い訳か自分でもよく分からなかったが、胸中で呟く。少し寂しくなった。
 何とは無くため息をつく。
 箪笥からTシャツを引き出し頭を通し、下はお風呂の後で良いと判断してベッドの上に畳んで置いたジーンズを履く。
 これでやっと楽になった。
 着替えてほっと一息ついた所で、階下から緋姫が呼ぶ声が聞こえる。
 階段を下りキッチンに行くと、長い髪を後ろでまとめたエプロン姿の緋姫が出迎えてくれた。ピンク色のレースのついた可愛らしいエプロンである。
 幼さの残る顔がどこか幼な妻を髣髴とさせると思ってしまうのは、私が種別を問わず本を読み漁っている所為だろうか。
 否、そんな事は無いはずだと信じたい。
 女子高生は耳年増なのだ。
「バイト大変?」
 料理の載った皿をテーブルに並べながらの不意の質問に、私は首を横に振る。
「あたしもバイトしようかな、お姉ちゃんとお母さんにばっかり負担かけて肩身せまいんだ」
 緋姫は私の向かいに座り、眉根を寄せて真剣な顔でそう言った。
 妹なりに色々思う所が有るのだろう。
 けれど私は――。

  「緋姫が。『お帰りなさい』と言ってくれるのは嬉しい。」

 と、それだけ言った。
 家族を感じられる。帰る場所が有るのだと安心させてくれる。だから、私もお母さんも頑張れる。だから気にしなくて良い。
 緋姫の明るさと優しさに救われているのは、多分、私とお母さんの方だから。
 なんて、少し恥ずかしくてそこまでは言えなかったけれど。
 緋姫はくすりと笑い「ありがと」とだけ口にした。
「そういえば、お姉ちゃんって喫茶店でバイトしてるんだっけ」
 ……。
 ……。
 ……こくり。
 アレは、確かに喫茶店でのバイトだ。間違いない。喫茶店のオーナーから依頼が来て対応しているのだから、喫茶店で働いていると言うのには嘘はついてない。
「そっかぁ、ウェイトレスさん?」
 変な間があった事に気付いたか分からないが、続けて質問してくる。
 ……こくり。
「あ、いまお姉ちゃん嘘ついた」
 バレた。
 緋姫は勘が良いというかなんと言うか、昔から人の嘘を見抜くのが得意だった。
 緋姫曰く、的中率は八割程度と言っているが、私に対しては一〇〇%の確率で見抜いてくる。
 どうやら近しい人間ほど的中率は上がるらしい。緋姫の彼氏になる人は大変そうだ。
「ほんとは何やってるの?」
 私にキス出来そうなほど顔を近づけて問い詰めてくる。緋姫の大きな瞳が至近距離で私の目を射抜く。
 ……困った。
 そう思って私が眉を顰めると、緋姫は、ふ。と私から離れて「ごめん、困らせちゃったね」と舌をだして苦笑した。
「お父さんに挨拶してからご飯ね。後、ちゃんと手を洗うんだよ? お姉ちゃん」
 まるで母親のように言う。お母さんも緋姫に対して同じような感情を抱いたりするのだろうか、等と思うと少し興味深い。
 いつもの様に自分の思考の海へ沈みそうになったが、緋姫が私の手を取りお父さんの仏壇が有る居間へと引っ張っていった。
 まだ夏休みも終わったばかりだと言うのに、居間はまるであの事故があった日の暗い水底のように暗くひんやりとしていた。
 緋姫は電気をつけると、仏壇の前に座り観音開きの扉を開く。
 私も緋姫も特別信心深いわけではないが、子供の頃から日課のように仏壇に向かっていると、やらないと気持ち悪いような感じがするものだ。
 仏壇の上のお父さんの写真は、私たち姉妹に今も優しく笑いかけてくれていた。
 緋姫が手なれた風に鈴を鳴らし、手を合わせ簡単に三唱する。
 そういえば、緋姫はキリスト教系の学校に通い、学校ではそう言うお祈りの方が多いだろうに、違和感を感じないのだろうか。
「はい、今日もお疲れ様〜。ご飯にしよ」
 言葉に私は頷き、キッチンに向かう緋姫の後を追った――。

 ――手を洗うのを忘れて席に着いたら怒られた。

 考え事を始めると、他の事を忘れてしまうのはやっぱり悪い癖だな。



 ぽたり。と水滴が私の髪を伝い落ち、タイルを叩いた。
 生温い水は私の体を舐めるように流れ、ごぽごぼと不快な音を立てて暗い排水口へと飲み込まれていく。
 シャワーを止めた手はまだ、震えていた。

 まだ、ダメだ。

 そんな事を思いながら、私は震えが止まらない自分の体を抱きしめる。
 肌を舐めるように伝い落ちる水に、まるで自分が犯されているような錯覚すら覚える。

 水は怖い。

 随分とマシになったと思うけれど、昔はコップ一杯の水にすら怯え、口にする事も出来なかった。
 今でも、湯船に浸かる事は出来ない程私は水を恐れている。

 水は――私の目の前でお父さんを殺したから。

 濁った水が、まるで生き物の様に襲ってきた事故。
 不幸な事故なのだと、人は言う。
 そうなのかもしれない。そうなのだと思いたい。
 でも、多分、お父さんを殺したのは私。

 助けられなかったのは、私。

 ――雨。沈んでいく車。

 いけない。

 ――水圧で開かないドア。浸水してくる濁った水。

 思考が回る。

 ――気を失った緋姫、それを抱きしめる私。

 思考が、止まらない。

 ――流されていく、お父さん。

 ひ。と声にならない声が耳に届く。
 それが、自分の喉から出たものだと気付くのに時間がかかった。

 ――病院の天井、割れる花瓶、破裂するペットボトル。

 嫌だ。これ以上は思い出したくない。のに。

 ――あの子が殺したのよっ

 お母さんの。
 私が――

 ――ダメっ!

 意識の海に飲み込まれそうな私の脳裏に割り込んでくる声があった。
 いつの間にか、お風呂のタイルに膝をついていた私を強く抱きしめる人が居る。
 濡れた私の体を抱きしめている所為か、彼女の白いシャツは水を滴らせていた。

「ダメだよ。お姉ちゃん」
「ひ……め?」

 何かが割れて、その中の水が零れ落ちるような音。

「ダメだよ……」

 緋姫はもう一度口にして、私を更に強く抱きしめる。
 それは、まるで私をこの世界に繋ぎとめるかのように強い力だった。
 混沌としていた意識が急速に冷えていく。
「うん……ダメ、だね」
「ダメだよ」

 私の呟きに、目に涙を溜めながら緋姫は笑って応えた。


       ◇


「まだ、ダメだったんだね」
 緋姫の言葉に、彼女の入れてくれた紅茶を啜りながらコクリと頷う。
 私と緋姫はパジャマに着替えて、ダイニングで差し向かいになってお茶を飲んでいた。
「最近は出てなかったから、大丈夫に成ったのかな〜と思ってたんだあたし。お姉ちゃん何も言わないし」
 湯のみを握り締めた緋姫の、静かな怒気を孕んだ目をまともに見られない。
 緋姫の頬には可愛らしい絆創膏が張られていた。どうやら、私を止める時に何かで切ってしまったらしい。「気にしないで」とは言ってくれているが、なんか申し訳ない。
「何か有るんだったらあたしにはちゃんと相談してね。お母さんに知られたくないのは分かるけど、あたし告げ口したりはしないから」
 私はこくり。と頷く。
 緋姫の言うとおり、最近は昔の事を――お父さんが死んだ時の事を思い出す事は少なく成り、さっきの様な発作が起こることは無かったのだけれど……日下さんの事が有るからだろうか。
 心が不安を抱えていると、精神は安定しないものだ。
「最近何かあったの?」
 緋姫の言葉に、慌てて首を横に振るが、緋姫の目は変わらず疑いの眼差しを私に向けていた。
 嘘だという事は見抜かれているだろうが、それでもこの嘘だけは突き通さなくては成らない。緋姫を巻き込むわけには絶対に行かない。
 緋姫は諦めたようにため息を一つ吐く。
「お母さ……」
 その言葉を緋姫が言い切る前に、私は手で制し首を横に振る。
「お母さんの気持ちは……分かるから」
 私が言うと、緋姫は一瞬悲しそうな瞳を向けた後、目を逸らした。
 あの事件があってから、私の周りで水に関わるものに異変が起こるようになった。花瓶が割れ、ペットボトルが破裂する。 
 恐らく私が水分を取ることを頑なに拒んでいた所為だと思う。
 そんな事が頻繁に続き、お母さんは私を恐れるようになった。そして――

「お姉ちゃん!」

 気付くと緋姫がテーブルを乗り出し、私の目の前まで顔を寄せていた。
「また悪い方に考えてたでしょ。ダメだって言ったのに」
 あ、うん。ごめん。と私は頷いて示すと、緋姫は笑顔で「よし」と言って腰を下ろす。
「それ以上変な事ばかり考えてると今日作ったアップルパイあげないから」
 む。それは困ります。緋姫様。私はぶんぶん顔を横に振り、アップルパイの載っていない皿を卓上に置かれる事態の回避を試みる。
 それだけは。決して。世界が終わっても。有ってはならない。
 緋姫の作ったアップルパイがないダイニングテーブル等、結婚式当日に花嫁に逃げられた新郎。太陽が無く輝けない月と言っても過言ではない。
 私はそそくさと食器棚から皿を用意し、空の皿を緋姫に向かって掲げるように差し出す。
 そんな私に「はいはい」と言いながら緋姫は苦笑を漏らしながら冷蔵庫へと向かった。
「でも、食べ過ぎちゃダメだよ? 太っちゃうから」
 その言葉に私はうんうんと頷きながら、内心にやりと笑う。
 世の女性には悪いけれど、私たち『覚醒者』は食事をエネルギーとして別に蓄える事が出来る。体に脂肪となる前に『存在力』に変換できるのだ。
 この力の事は女性の『覚醒者』の間では『見えない胃袋』と言われ、最重要能力とされている。私が『覚醒者』になって良かったなぁと思う数少ない事の一つである。
 つまり――

 ――豊玉 水姫は太らない。

 のだ。

 結局一ホール全部頂きました。

 美味しかったです。まる。