■波紋■


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 ――波紋。

 最初はとても小さな波紋。

 それは次第に大きくなりどこまでも遠くへと拡がっていく。

 まるで、私の心のようだ。
 ほんの小さな事で臆病に揺れる。

 ――水は嫌い。

 水は、人の命を容易く奪うから。

 ――水は怖い。

 水は、私だから。

 私は――人を容易く殺すから。

 だから――嫌い。


     ◇


 かちゃりとスプーンと陶器のカップが音を立てた。
 くるくると紅茶をスプーンで回すと、紅茶は静かに渦を作る。
 私はその渦の中へカップの端からミルクを垂らす。
 ミルクはその渦に飲まれ、琥珀色の液体は円を描きながらミルクと混ざりミルクティーへと劇的にその存在を変えた。

 ――小宇宙だ。

 目の前には今作り終えたミルクティーと、イチゴのショートケーキが置かれていた。
 全人類にとってティータイムと言うのは一日の中で最も重要な時間であると私は思う。
 人生はティータイムで始まり、ティータイムで終わる。それこそ宇宙開闢から宇宙の崩壊の縮図と言ってもいい。
 純粋で無垢な琥珀色の液体にミルクを入れる事で、その世界に大きな変化を与える私は、神と言っても過言では無いだろう。

 至福の時。

 自分が自分好みに作り変えた世界(ミルクティー)、そしてその隣には白無垢の生クリーム(ウェディングドレス)で着飾り、赤い宝石(いちご)で身を固めた祝福の鐘を待つ花嫁(ショートケーキ)。
 これほど素晴らしい時間があるだろうかいや無い。
 そう、ティータイムというのはまさに自分の創造した世界で行う、結婚(マリアージュ)のような物。
 決して誰にも邪魔されず、決して他の追随も許さず、決して裏切らない。そんな時間。
 特にショートケーキのその白い柔肌にフォークを入れる時には、言い知れない、何かいけない高揚感を感じるのは私だけでは無いはずである。
「随分とご機嫌だな」
 テーブルを挟んで向かいに座っている男はそう言った。 
 その声に私は自己陶酔の世界から顔を上げ、男に向かってこくりと一つ頷いた。
 私の頷きに苦笑しながら、黒くて苦い液体(コーヒー)を香りを楽しむようにした後、眉を顰めるようにして口に運んだ。
 南方 健(みなかた たける)。
 成績・出席日数がともに足りず、危うく今年私達と同じ学年になりそうになったうちの学校の先輩である。
 今、辛うじて三年生。
 下手をすると来年は私達と一緒に卒業する事になるかも知れない人だ。
「食わねぇのか?」
 高校生とは思えないバスのきいた声で、私を促した。
 はっ!?
 慌てて私は私の小宇宙に視線を戻す。

 ……私の小宇宙……いい響きだ。

 私はフォークを手に取り、私の花嫁の味を見ようと振り下ろそうとした、その時――。
「すまない、待たせてしまったね。早速仕事の話を始めようか」

 頭上から聞こえてきた美少女が吐いた言葉に、私は眉をしかめる事になった――。


     ◇


 ――後手に回ってしまった。
 そんな思いと共に嫌な汗が私の背筋を流れる。
 それは辺りが炎に包まれているの事だけが理由ではないはずだ。

 『県立岩戸病院』

   その病院は、炎に包まれ、今にも焼け落ちそうになっている。
 激しい炎が赤々と隣に立つ南方先輩の顔を照らしていた。
 先輩も私と同じ思いなのだろうか、苦々しく歯噛みしてそれを睨み付ける。
 それは辛うじて、まだ『少年』の形を保っていた。
「てめぇ、何人喰いやがったんだ!」
 先輩が少年だった物に言い放つ。
 少年だった物は恍惚の表情で指折り数えながら――。
「お医者さんと、看護婦さんと……あと、いっぱい」
 無邪気に笑いながら、『少年』はそう口にした。と、同時に背中から七本目の腕が生える。
 そう、もう既に少年だった事しか分からない異形。その異形は炎に照らされ病室の天井にまで影を伸ばす。
 完全に手遅れだった。

 ――『超越者(ヒュペリオン)』。

 人の存在を喰う、人間の天敵。 
 『超越者』は自分の欲望を叶えるために、他者の存在を喰らい自分の力へと変える。
 犠牲になった人間は『超越者』の一部となり、この世界に元々居なかったことになる。つまり、誰の記憶からも消えてしまうのだ。
 そして自らの欲望にとらわれ、他者の存在を喰らった『超越者』は、人としての心と姿を失い『異形化』と言う現象を発生させる。
 それが……今、目の前にいる壊れてしまった『少年』だった。
「僕はこんなにも元気になったよ。これで学校にも行けるんだ」
 七本の腕を大きく広げ大きく息を吸い、自分の欲望の達成に恍惚を含んだため息を吐く。
 先日まで、この病院のベッドで自らの病に嘆いていた『少年』は、人間と言う存在を『超越』し、病を克服する代わりに人としての心を失ってしまっていた。
 先輩がこちらをちらりと見る。
 やるしかない――そんな目だ。
 こくりと私は頷きで返す。
 それが、私の……私達のやらなくてはならない事だから。

   ――あなたの罪は、私が背負う。

 心の中でそう呟き、私はボトルホルダーからミネラルウォーターのボトルを引き抜き開栓し、戦う意思を水に込め刃へと変えた。
 炎に巻かれたこの場では、五〇〇mlの水なんかあっと言う間に蒸発してしまうだろう。刃として凝縮した方が水の持ちがいい。
 水を操る能力。それが『覚醒者(アウェイカー)』としての私の力だった。
 目の前にいるような『超越者』という異形の者達と戦うのは、やはり異能の力を持ったものにしか出来ない。
 つまり私達『覚醒者』にしか出来ないと言う訳だ。
 世界には『存在力』という、この世界に存在する為の力が在り、その力を物理的に行使する事が出来る人間を、私達は『覚醒者』と呼んでいる。
 俗に言う超能力者というヤツだ。
 そして私達超能力者は、その力を使って人の『存在力』を喰って力をつけ、自らの欲望を叶えようとする『超越者』を退治するのが使命だった。
「じゃあ、何して遊ぼうか」
 そう言って目の前の『少年』はこちらに笑い掛ける。
「あぁ、お前が遊び疲れて眠っちまうまで相手してやるよ」
 先輩は無邪気な笑顔にそう応え、手近にあった点滴を吊るす柱を手にして構えた。
 先輩が手に持った支柱が形を変え、一本の剣に変わる。
 金属を自らの思ったとおりの形状に変化させる、彼の能力の一つだった。
 『少年』が七本の腕を虚空にかざすと、その手に炎が集まり巨大な火球が七つ現われる。
 あんなのが全部放たれたらこの部屋の中に居るものはいっぺんに灰になってしまうだろう。
 それが放たれる前に先輩が『少年』に向かって駆け出した。
 どうやら先輩も私と同じ考えだった様だ。
 『少年』があれを撃ち出す前に、倒す。
 私は水の刃を一閃し、剣から三発の水弾を撃ち出した。目標は『少年』の腕二本と――先輩。
 三発の水弾は一直線に各目標へと飛翔し、炸裂する。
 水が周囲に飛び散り、同時に燃え盛る炎に焼かれ蒸発する。辺りは一瞬霧の様な靄に包まれた。
「わりぃっ! 二本残した!」
 先輩の声。
 瞬間水蒸気の靄を突っ切り、私めがけて巨大な火球が凶暴な叫びを上げて飛び込んできた。
 私は少し短くなった水の刃を胸の前に差出し、防御の体勢を取る。

 ――水よ!

 瞬時に水の刃は薄い水の壁へと変わり、巨大な火球を受け止めた。
 二つの炸裂音。
 私と先輩。それぞれ一発ずつ撃ち出したらしい。やはり保険はかけておくものだ。
 防御に使用した水が蒸発し、先程よりも濃い水蒸気で部屋を満たした。
 周囲に広がる炎の勢いからすると、直ぐに視界も元に戻るだろう。
 私は靄の中を移動しつつ、視界が開けるのを待つ。まだ靄で相手の場所は分からないが、ぼんやりと突っ立っていれば的になるのが落ちだ。
 手元の水が大分心もとなくなって来た。でも、もう少しは持つ。
 三秒ほどで視界が開けた。
 先輩も私と同じように移動しながら、視界が開けるのを待っていたようだ。
『少年』と近づきすぎず、離れすぎない程度の距離を取っている。
「熱ぃじゃねぇか! 水の壁の援護もらってなかったら死んでたぞっ!」
 死んでたと言う割には元気な口調だった。
 それでも、保険として防御用の水弾を飛ばしていなければ危なかったのも確かだろう。
「あはは。たのしいね。もっと遊ぼうよ」
 『異形化』の興奮状態の為だろうか、腕を五本無くしたにも関わらず楽しそうに笑う。
 先程の私たちの攻撃が効いていないと言う訳では無さそうだが、先輩の武器はともかく私の武器である水はもう残り少ない。
 『少年』の存在を消し去る為には、決定力に欠ける。
 私は先輩の方を見るが、有る程度はダメージを軽減できたものの、さっきの火球の一撃はこたえたのか肩で息をしていた。
 周りを取り巻く炎もじわじわと私たちの体力を奪っていく。
 先輩もこちらの視線に気付き、不敵な笑みを浮べた。
 つまり、無理してるって事ですね。
 男って言うのはこういう時に強がりたいものらしい。
 多分先輩は「大丈夫だ」と見せたつもりなんだろうけど、多分誰が見ても「もう一発くらい喰らったら俺死ぬかも」と言う雰囲気です。
 死相が見えるって言うやつだろうか。
 縁起でも無いけれど。
 先輩は覚悟を決めたかのように『少年』に視線を戻した。
 男のプライドみたいなものに賭けて突っ込んだりするんだろう。
「行くぞっ!」
 先輩の呼びかけに、私はこくりと頷き駆け出す。
 後ろ向きに。
「ちょ、おまえっ!」
 背中越しに聞こえる先輩の声に、私は指で上を示す。
 それだけで私の意図は分かってくれるはずだ。
「どこ行くんだよぉぉっ!」
 ……分かってくれなかったらしい。
 『超越者』に背を向けて逃げる私を慌てて追いかけて来てくれたのは、まぁ……ありがたかったけれど。
「鬼ごっこ? 僕が鬼なんだね?」
 あはは。という喜びの笑いを伴い少年だったそれも私達を追いかける。
 一時的に身体能力を上げ、燃え盛る病院の廊下をまるで風のように駆け抜ける私達に、つかず離れずの距離を保ちながらついて来ていた。
 ふと目の端に元々は入院患者だろうか、炎に焼かれた死体が写った。
 私はその惨状に私は下唇を噛む。
 いくら『超越者』さえ倒せば死ななかった事になるとは言え、何度見ても気分の良いものではない。
 だが、『超越者』に存在を喰われるよりもマシだろうか。
 存在自体を喰われ、『超越者』の存在に取り込まれた犠牲者は、たとえ『超越者』の存在が消え、『超越者』が起こした事が無かった事になったとしても生き返ることは無いからだ。
 少なくとも先程の死体は、一度焼け死んだ事など知りもせず平穏な日常を過ごせる。

 ――その為には私達がこの子を消さないと行けないのだけれど。

 昔ほどではないにせよ心が、痛んだ。
 私は最後の階段を駆け上った。扉を開け目的の場所に到達する。
 焼け焦げた匂いが風に乗って鼻につく。
 病院全体を包む凶暴な炎が、夜空を赤々と染めていた。

   屋上。

 ここにはあれがある。
「おいっ! 来るぞっ!」
 ほんの少し遅れて、転がるように屋上に飛び込んで来た先輩が私に叫んだ。
 そして屋上へと続いていた扉を破壊し、炎を従えて『少年』は現われる。その姿はまさしく炎の魔人と言える姿だった。
 『少年』の周りには十数匹の炎の蛇が、彼を守るように辺りを威嚇している。
 屋上に来るまでに炎で下僕を作ってきたか。
『お姉ちゃんたち……もう、行き止まりだよ』
 口調は少年のそれだったが、その姿は取り込んだ存在の多さに耐えられず、醜く巨大な『異形』と化している。先程切り落とした腕も再生されていた。
 声帯が正常な人間のものではなくなっている為、声がくぐもって聞き取りにくい。
『鬼ごっこで捕まったら、鬼に食べられちゃうんだよ』
 異形の『少年』は言う。
 だが、鬼はいつの時代も退治されるものだ。
 そして、こちらは退治する準備が出来ている。
「そ、そうかっ!」
 先輩は、あれの隣に手をついて立つ私を見上げ、やっと私の意図を察したらしい。
 ――貯水タンク。
 そう、これが私の目的だった。
 こういう建物の屋上には貯水タンクが必ずある。(たまに無い場合があって、痛い目を見ることもあるけれど)
 そして、これだけの水があれば彼女を呼べるのだ。
 短くなった水の刃でタンクに大きな穴を開け、私は彼女の名を叫ぶ。
「豊玉姫っ!」
 タンクから零れ落ちる大量の水が、私の呼び声に応えて渦を巻き収束し水の柱を大きく立ち上らせる。
 そして、その水柱が収まった時、私の目の前には大きな鰐の姿を取った水の獣が鎮座していた。

 ――豊玉姫。

 もう一人の私とも言える私の相棒だ。
 豊玉姫が大きく吼えると、『少年』の傍にいた炎の蛇が怯えるように揺らぐ。
 私は豊玉姫を従え彼らを見下ろした。
「終わりに……してあげて」
 私はぽつりと言う。
 その言葉に豊玉姫はその巨大な顎を開き、『少年』と十数体の炎の蛇を纏めて飲み込んだ。
 これで、終わり。
 私がゆっくりと目をつぶると、豊玉姫は弾けて消えた。
 その後に残されたのは、空を見上げて横たわる憐れな少年。
 豊玉姫にその存在を全て破壊され、『異形化』する前の姿に戻っていた。
 その目は虚ろな瞳で、炎に赤々と照らされている夜空に浮かぶ月を見つめる。
「ぱ、ぱ……ま……ま」
 そう呟きながら、虚空に手を伸ばす。
 虚ろな瞳につぅ……と涙が流れた。
「……疲れたろ? ゆっくり眠りな」
 先輩がそう言うと、少年はこくりと頷きゆっくりと目を閉じる。

 そして少年は世界から――。


 ――静かな夜。

   県立岩戸病院はその静かな夜の闇の中、何事も無かったかのように眠りについていた。

 いや、本当に何事も無かったのだ。

 先程まで病院の全てを焼き尽くそうとした炎は痕跡すらない。
 『少年』の存在が消えたことによって、『少年』が起こした事は全て起こらなかった事になったのだ。
 廊下で炎に巻かれ物言わぬ物となっていた人は、今頃病院の消毒されたベッドで静かな寝息を立てている事だろう。
 この病院に長い間入院していた『少年』は居なかった。
 窓から外を見つめ、元気に学校に通う事を夢見た『少年』は居なかった。
 その『少年』がこの世界に存在した事を覚えている人間はもう居ない。

 私達以外は。

「なぁ……なんて名前だったんだ?」
 不意に先輩が、こちらを見ずにぼそりと私に聞いた。
 見上げた視線の先には、『少年』が入院していた病室が見える。
「日下 天巳(くさか あまみ)」
 私が『少年』の名前を答えると「そうか、覚えとく」とだけ言い、先輩は口をつぐむ。
 あの『少年』は生まれながらの病の為、ずっと健康な体に憧れていた。
 自分も学校に行きたいと願い続けていた。走り回りたいと祈り続けていた。
 この世界の殆どの人間が当然に持っている事を、持っている物を望んだだけだった。

 ただ、その望みが強くなりすぎて。
 みんなと同じになりたくて。
 仲間はずれにされたくなくて。
 望んだことは――ただ、それだけ。

 ただ『少年』は、それをどんな犠牲があったとしても手に入れたいと思ってしまった。
 先輩につられ見上げていた病室から先輩に視線をを戻すと、先輩の肩が震えていた。
 泣いているのだろうか。それとも、『少年』を救い出す事が出来なかった自分に怒りを覚え震えているのだろうか。
 多分、その両方だろうけれど。
 この人は外見からは想像が付かない程、底抜けにお人好しで、誰に対しても優しすぎる。
 だけど。そんな先輩が、私は少し羨ましかった。
 いつからだろうか。
 私が涙を流さなくなったのは。
 悲しい。と感じているのに涙が出なくなったのは。
 初めはこんな事が有る度に、自分の無力さに泣き、喚き、意味もなく家族に当り散らしたものだった。
 それが今は、こんなにも冷ややかに現実を見つめている。
 こんなにも『悲しい』と言う感情が私の心で波紋のように拡がっていくのに、私の体は反応しない。
 冷たい女だ。と、自分でもそう思う。
「やりきれねぇよな」
 先輩がそんな言葉を漏らした
 私は頷きで返すが、それは『少年』を救えなかった事に対してか、それとも涙を流せなくなった私自身に対してか判別がつかない。
 ため息を吐き、私は病院に背を向けて歩き出す。

 ごめんね。

 私は誰にも聞こえない程小さい声でそう、呟いた。
 そして、高校二年の夏休みが終わる。