■D昼と夜の境界で■


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 ――まるで、霧の中を歩いているようだった。

 その濃密に圧縮されたような空気が息苦しさを感じさせる。
 ほぼ完全に視界を閉ざされた世界で、俺は何かを探していた。
 何かを無くした事ははっきりと分かるが、無くした物が何なのか分からないような、そんな感覚。
 イカれたレコードが途切れ途切れに曲を奏でるように、探している物の全体像がはっきりとイメージできない。
 ただ、大切だったという事だけは記憶に残っている。

 ふと、あだ名を呼ばれた気がした。

 俺をそう呼ぶのはあいつだけだった。
 最初は、そう呼ばれるのが少し照れくさくて止めてほしいと言ったが、あいつはその呼び方を止めることは無かった。
 あいつは俺のアパートの近くの自然公園が好きだった。
 長い黒髪を風になびかせながら俺の腕を取り「早く早く」と急かした。
 俺はため息とともに苦笑し、悪態をつきながらも引き摺られていく。

 ――幸せな……退屈だった。

 あいつが笑う。それにつられて俺も笑う。
 いつもと同じ。
 退屈で、とても幸せな日常。

 ――最後に。

 ――最後だから。

 そんな言葉でその日常は終わった。
 息が詰まるような別れの言葉のあと、長い間を持ってあいつは口を開く。
 屋上が赤く赤く染まる。
 あいつの血で真っ赤に染まる。
 そしてその血は蒸発するかのように少しずつ空気に溶けていく――世界に溶けていく。

 ――へへへ……私が消えるのは怖くない。でも、あなたの記憶から消えてしまうのは少し怖いかな。

 あいつは気まずそうに笑い、その笑顔に夕日が陰を落とす。

 ――忘れやしねぇよ。
 ――信じちゃうよ?
 ――あぁ、俺が約束を破ったことあるかよ?
 ――うん、いっぱい。
 ――もし忘れてても絶対思い出してやる。
 ――あ、スルーなんだ?
 ――約束だ。
 ――あはは。うん、約束。

 それが、俺とあいつのした『約束』だった。
 あの、夕日に赤く染め上げられた屋上で――別れ際にした『約束』。
 もう、会えなくなる様な錯覚では無く、もう逢えなくなると言う現実。

 ――豊玉さん。ちょっといいかな?

 月夜は俺の後ろに居た豊玉を近くに呼び、俺の方を少し意識して言った。

 ――こんなこと言うのもなんだけど、できれば彼を巻き込まないでほしいな。目覚めないでいいのであれば、ずっと日常と呼ばれる夢を見ていた方が幸せだから。

 その言葉に豊玉が少し考えて……こくりと頷いた。
 月夜は豊玉の答えを見て、満足そうな微笑みで返す。

 それが、豊玉と月夜がした『約束』だった。

 ――これが、本当に最後。

 月夜は意を決したように俺を見る。
 そして、あいつの笑顔がくしゃりと歪んだ。

 ――好きだったんだぁ……あなたの事。

 それが、涙と共に呟いたあいつの最後の言葉――。


 目を覚ますと、いつもと同じ見慣れた天井が見えた。
 古くはないが新しくはない俺のアパートの天井。
 昨日あの後別れ際に

 ――どうやらキミは、ある程度自分の思うように時間を操る事が出来るようだね。

 と三上は言った。
 時間を操るという事に実感は無いが、時間に干渉するというのは火や水を使うような能力とは一線を画しているという。
 火や水操る事はあくまで物理法則に則って行使されるらしいが、時間を操るというのは物理法則を無視して世界全体に干渉する。
 普通の『覚醒者』や『超越者』が使う力よりも遥かに代償が大きく、多用し過ぎると俺自身の『存在』自体が消えかねないと釘を刺された。
 その後豊玉がおずおずと月夜の事を話そうとしたが断った。
『覚醒』したことで、あの日……月夜が消えたときの事を大体思い出したからだ。
 豊玉の口から月夜を消した時の事を聞いてしまうと――豊玉が最善の方法を取ったと分かっていても、それを責めてしまいそうな気がしたのだ。
 強がってはいても俺の心はそんなに強くない。
 豊玉には感謝しているが、それでもあの場で気軽にありがとうとは言えなかった。
 器が小さいんだよ。俺。
 俺はベッドから起き上がり、キッチンでコーヒーを淹れる。もちろん豆なんて気の利いたものは無いのでインスタントコーヒーだ。
こうやってインスタントコーヒーを淹れてみると、『天津』のコーヒーは結構いい豆を使っているっぽいなと漠然と思った。

 ――コーヒーっていい香りがするのに、なんであんなに苦いんだろうね。

 月夜がそんな事を言っていたのを思い出し苦笑する。
 それに俺はなんといって答えただろうか。人生の苦味が出てるんだよ。とか言って大笑いされたような気がする。
 香りの薄いコーヒーをすする。
「約束、守ったぞ」
 独り言。
 口にしたコーヒーはいつもより苦く感じた――。


 ***     *** ***


 その日も俺はだらだらと校舎へと続く坂道を登っていた。
 いつもより少し早めに登校したせいか、坂を上る生徒の数は少ない。
 坂沿いに張られたフェンスの向こう、植樹された木々の中で生き遅れたセミが鳴いていた。
 まだ秋というには早いが、夏というにはもう遅い。
 日中は暑いが、朝晩は心地よい涼しい風が肌をくすぐる。
 それでも、坂を上りきるころには額に少し汗がにじみ出ていた。
「はよ〜、真面目な不良君」
 下駄箱でそう声を掛けられた――朝練上がりだろうか、桜はまだTシャツに短パンという姿だ。
 手をまるで子犬の尻尾のようにぶんぶんと振り回している。

 おれは気だるそうに片手を上げるだけで応えた。

「今日は一段と気だるそうだね。欲求不満?」
「気だるかったら欲求不満なのかよ?」
 いつもの軽口。
 今日聞くのであれば「まだ風邪?」が妥当ではなかろうか?
「そうそう、気だるい人は何かに欲求不満な証拠なんだよ? これも統計で証明されてるんだぜ?」
「そうなのかっ!?」
「あたしが取った統計だけどね」
「どれくらいの人数でとった統計なんだ?」
「君とあたし」
 ずいぶん当てにならない統計だな。
 しかも、お前はいつだって欲求不満だろうがよ。
「まぁ、いつも気だるい君はいつだって欲求不満って事さ。とりあえずあたしを縛ってみようよ」
「何がとりあえずだっ! そんなもんで欲求不満が解消されるわけねぇだろ!」
「されるよ! 少なくともあたしはっ!」
 お前の欲求かよっ!?
 俺は上履きに履き替え、桜とそんな馬鹿な会話を交わしながら一緒に教室に向かう。
 登校する生徒たちのざわめきが、遠くに聞こえる。
 眠たそうにしている奴。どこからか聞こえてくる笑い声。
 朝練上がりの連中の落ち着かない雰囲気。

 いつもと同じ。

 退屈な日常。

 それでも――少し幸せな日々。

 ただ、そこにはあいつらの姿だけが無い。

 それなのに。

 誰もそんな事には気づかない――誰も気づけない。

「どしたのっ!?」
 桜が驚いた風に俺の顔を覗き込む。
「ん?」
「あ、あ、いや、えと……涙っ!」
 言われて俺はやっと、頬を伝うものに気づいた。
 慌てて目を制服の袖で拭った
 桜は俺以上に慌てて、かばんの中をがさごそと漁る。
 ハンカチでも探してるのだろうが、なかなか見つからないのが桜らしい。
「あは……わりぃ、大丈夫だ」
 笑顔を作って応えるが、多分無理しているのは気づかれるだろう。

 豊玉は言った。
 俺たちはこの世界の全ての罪を背負うのだと。
 三上は言った。
 俺たちはこの世界の運命を背負うのだと。

 でも。
 たぶん。

 俺は、俺達が背負うのは。
 消えていったやつらの全てを背負うのだ。

 だから、せめて俺は。俺だけは。
 お前らの事を忘れない――忘れてやらない。

 それが、俺が世界に存(い)在る理由。

 ――まったく……上手くいかないもんだ。

 学校の窓から雲の流れる空を見上げ、俺はあいつの口癖を呟いた――。