■C月明かり■


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「お大事にね、なんか大変だったら呼んでね?」
 玄関口で桜はそう言い、逸見は黙って片手だけ上げて「じゃあな」と身振りで示し、二人連れ立って帰っていった
 桜と逸見を送り出した後ベッドに仰向けに倒れこむ。
 気疲れと、満腹感で「ふぅ」とため息をひとつついた。
 桜が作った料理は美味かった。名目上風邪の俺に気を使ってか、消化に良さそうなものが多かった。
 しかし、桜だって親からもらっている小遣いなんか知れているだろうに、材料費なんかは殆ど出してくれたようだ。
 逸見も少し出したようだが、逸見曰く「ずいぶんと張り切っていた」らしい。(ちなみに三上は出さなかった)
 ただ、食べ終わった後に「元気になったら身体で返してもらうね」と上機嫌で言っていたのが怖いが。
 まぁそれでも、いくら感謝しても足りないくらいだ。
「俺の平穏な日常と引き換えに……か」
 三上に言われた言葉を思い出す。

 ――キミの平穏な日常と引き換えに、彼女たちの日常を守る事が出来るんだよ。

 正直まだ実感がわかない。
 確かに『夜鬼』に襲われて、三上や豊玉の話が本当だということは分かる。
 学校をサボって豊玉と公園を歩いたり、悪友共が見舞いという名目で遊びに来たり。

 こんなにも平穏じゃないか――今はまだ。

 本当に何か起こるのかと言う不安と少しの期待。
 三上の言っていた「正義のヒーロー」って言葉に、馬鹿馬鹿しいと思いながらもちょっと魅力を感じているのだろうか。
 まぁ、男だったら誰だって、一度はテレビや漫画で見たようなヒーローに憧れる時期がある。多分に漏れず俺もそうだった。
 テレビや漫画のヒーローたちは、丁度今の俺と同じくらいの年齢だったんじゃないだろうか。
それならば今、俺がヒーローになるのもおかしい事じゃないのかも知れない。
 なんて事をそこまで思って苦笑する。
「何考えてんだよ……俺は」
 現実を見ろっての。
 しかし、現実を見た結果――『夜鬼』と言うのが居て、それと戦う豊玉みたいな超能力者が居て。それが現実で。
 昨日までの俺だったら馬鹿馬鹿しいと鼻で笑ってしまうような思考が、ハムスターの遊具のようにぐるぐると同じところを回っていた。
 あぁ、めんどくせぇ。
 と、胸の中でぼやきベッドから起き上がる。
 俺は考えが深いような人間じゃない。なるようにしかなんねぇよ。
 起き上がると、テーブルの上に置いてあった携帯が鳴り、メールの着信を知らせた。

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差出人:サクラ
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件名 :無題
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自然公園で待ってる。

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 と言う、桜からのメールだった。
 何の用だ? と返信するが、それに対するレスポンスは無かった。
 いつだって唐突なやつだが、メールの文面に何か違和感を感じる。
 いつもだったらメールからでもテンションの高さを感じさせる桜だが、それが感じられなかったからだろうか。
 それに何か言えないような事情があった場合「来てのお楽しみだ〜」とか「ふっふっふ秘密ですよおにぃさん」とか何か含みのある返信が返ってくるはずである。
 一抹の不安がよぎった。
 と同時に、俺は上着を手に取り自然公園に向かっていた。


    ◇     ◇     ◇


 ――公園は静寂に満ちていた。

 もう辺りは薄暗く、外灯が物悲しい光をもって辺りを照らしている。
 毎年この時期、自然公園では夏の終わりを告げるひぐらしが大合唱をしていたが、今日は何かを感じ取ってか虫の鳴き声はまったく聞こえてこない。
 なるほど……違和感はそれか。
 そんな事をちらりと思い、そして間違いなく何かがある事を予感させた。
 心細い光が照らす道を、桜の姿を探しながら進む。公園の中は淀んだ空気が溜まり、その空気が肌に纏わり付く様で気分が悪い。
薄らと嫌な汗が浮かび、シャツが肌に張り付く。
襟元のボタンをはずし、少しでも風通しを良くしようとするがあまり変わらなかった。
 ち。と舌打ちをしたのは、この纏わり付く空気のせいか、それとも嫌な予感にイラついているせいか。
 しばらく行くと昼間豊玉と話をした場所に出た。

  「桜……」

 そこから少し遠く――昼間母子が渡っていた橋の上に桜は一人立っていた。
 公園にまばらにある外灯と月明かりが、まるで舞台に立つ女優のように桜を照らし出している。
 俺が声を掛けると口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと振り返った。
 駆け寄って「だ、大丈夫か」と息を切らせながら聞いたのは、俺自身の不安のせいだろうか。
 俺の言葉に桜は浮かべた笑みを絶やさず言った。
「来た、か」
 目が。正気ではない。
 その視線、言葉に背筋にぞくりと悪寒が走った。
 焦点が合っていない。……いや、こいつは俺を見ていない。
 桜の視線の先を追って、俺は振り返る。
「豊玉……」
 今日別れた時と同じ服装――シックなシャツにジーンズ。腰のペットボトルホルダーにはミネラルウォーターの入ったボトル。
 別れてからも、ずっと俺の家を見守っていたのか?
 豊玉は桜の視線を真っ向から受け止めるように睨み返していた。
 まさか、桜が『超越者』だとでも言うのか?
 だから、三上は桜が居ないときにあんな話をしたのか?
「あ、おい……豊玉」
 俺の声を意に介せず、豊玉はペットボトルの水を宙に撒く。
 弧を描き水が飛び散り、しかしその水は地面に落ちず、豊玉の周囲に水滴となってふわふわと浮かぶ。
 豊玉の周りの水滴が月の光を反射してキラキラと光った。
「邪魔者は排除させてもらおう」
 桜がぼそりと言う。
 気付けばすでに俺達は橋を中心にして囲まれていた。
 『夜鬼』
 樹が間違って人の形を取ったような例の化け物たちがどこからとも無く集まってくる。
 桜の言葉に対して豊玉は感情が動いた形跡は無い。
 あの屋上の時の、昨日『夜鬼』に行き遭った時の、ただただ冷淡な表情でそこに在った。
「やれ」
 対して、桜が端的に冷たい声で『夜鬼』にそう命令した。
 桜の命令に従い、数体の『夜鬼』が豊玉を引きちぎろうとコンクリートも易々と砕く触手を伸ばす。
 『夜鬼』が動くのと同時に豊玉はまるで風のように素早く動き、一体の『夜鬼』の懐に潜り込んだ。
そして周囲に浮かんでいた水滴を一つ指差し、まるでオーケストラの指揮者のように振るう。ただそれだけで、『夜鬼』は袈裟切りに断たれ、そして夜の闇に溶けたように消え去った。
 しかし豊玉は袈裟切りにした異形のものが消え去るのを待たず、周りを囲んでいた異形のモノ達を次々に指差した。
その指示に答え豊玉の周りに在ったほんの小さな水滴が『夜鬼』目掛けて撃ちだされる。
 ぱぁん! という着弾音とともに数体の『夜鬼』の半身が削り取られ、残された半身はくたりと動きを止め闇に溶けた。
「流石にやるな」
 破裂した水滴が舞い散る中、不敵な笑みを浮かべる桜の言葉に豊玉は向き直る。
 まるで時間がゆっくり流れていくような錯覚を感じた。
「こいつが傍に居るとこちらには仕掛けられないか? 優しいな豊玉さんは」
 黄色い声を上げて桜は笑う。
 しかし豊玉は桜のその言葉にぼそりと言った。

「そうでも……ない」

 え?

 そう思った瞬間、豊玉は俺と桜のすぐ隣にまで駆け寄っていた。
 そしてその勢いのまま桜に拳で殴りかかる。
 駆け込んだ勢いそのままに全体重をかけた右拳、続けて左拳、右からの蹴り上げ、蹴り上げた足をそのまま踵落としへとつなげる。
 一体どこの格闘ゲームだ。と思わせるようなスピード感のある連撃だった。
 しかし、一方桜もその連撃を守り、かわし、いなす。
 持ち前の運動能力を総動員して豊玉の攻撃を凌ぎ切り、大きく後ろへと飛びのき、器用に橋の欄干にふわりと乗った。
「あははははは。やるな、流石だ。息一つ乱れていない」
 実に愉快そうに笑う。
「そうやって何人も消してきたんだな? そうやって幾人も殺してきたんだな? そうやって冷たい瞳と揺ぎ無い感情と重い使命を大義名分として、お前は何人も何人もこの世界から排除してきたんだな? 『超越者』を消す為には多少の犠牲も厭わないか」
 桜はちらりと俺を見た。
 俺は、その視線にびくりと怯み、俺を守るように桜と俺の間に立つ豊玉の背中を伺った。
「あなたは……彼を殺す事は無い――出来ない」
 豊玉が言う。
 桜が不快そうに眉根を寄せた。
「彼はあなたの目的だから」
 桜は答えない。
 先程までの愉快そうな笑いを止め、不愉快そうに豊玉を睨み付けている。
 そして、ゆっくりと腕を上げた。
 その桜の動作に答えるかのように、それは静かに――そして禍々しく一つに集まって行く。
 個々では豊玉にとって取るに足らない『存在』は、お互いの『存在』を貪りあい、より強く、より高位の『存在』へと成ろうとしている様に見えた。
 あまりの事に呆然とする俺の目の前で、『夜鬼』はとても分かりやすく、巨大で強力な化け物へと変貌する。
 欄干に立ったままの桜は再び冷淡な笑みを浮かべ、俺と豊玉を見つめた。
 月を背にした桜はどこか次元の違う存在のようだった。
「消えろ。豊玉 水姫」
 桜のそんな言葉に応えて、巨大な『夜鬼』はその大きさからは想像もつかない様な素早い動きで俺と豊玉の目の前へと移動し、その拳を振り上げる。
 その拳を避けるべく豊玉は俺を抱きかかえ、後退し安全と思われる場所へと俺を退避させた。
 俺より頭一つ半小さい女子にお姫様抱っこされてだ。
 なんか男としての尊厳が瓦解するような気持ちである。
 サマにならない事この上ない。
 『覚醒者』とは言え想像もつかない力を発揮した豊玉に驚きながら、俺は実に間抜けな事を聴いたと思う。
「重くないか?」
 そんな俺に、豊玉は真面目にこくりと頷いた。
 なんでこんなに男らしいんだよこいつ。俺が女だったら惚れちまうじゃねぇか。
 だが、女ではない俺としては全く持って立場が無いのが実情である。
「あ、あの……大丈夫?」
 気まずさを振り払う様に言った台詞だったが……
 なんだ、このヒロインが主人公を心配するような台詞は!?
 自分の台詞に逐一突っ込んで居る俺に、豊玉は「大丈夫」と一言だけ答えて少し離れた『夜鬼』と桜に視線を向け駆け出した。
 巨大で強大になった『夜鬼』に走りこみながら水弾を撃ちだす。
 着弾音と共に大きく水が弾けるが先程とは違い、その巨大な『夜鬼』にはあまり効いていないようだ。
 豊玉を『夜鬼』の拳が襲うが、直撃する直前に豊玉の周囲に浮かんでいた水の玉が大きく広がり水の膜を張る。
 その水の膜がまるで金属がぶつかるような音を立てて、巨大な拳を弾いた。
 すげぇ。
 小柄な豊玉が相対していると、その『夜鬼』はより一層巨大で禍々しく見える。
 そしてそれと怯まず戦っている豊玉は、ある種勇敢な騎士のようにも見えた。
 まさしく、非日常的な戦いがその場で繰り広げられている中、『夜鬼』の主である桜はその戦いを見ながら冷淡な笑みを浮かべていた。
 いつもの桜からは考えられない程の冷たい目、冷たい笑い。まるで別人のような顔。
 そして、ふと忘れていたものを思い出したかのように俺の方を見る。
 その動きに豊玉が気付く。
 桜が笑う。
 豊玉が巨大な敵に背を向ける。
 俺の視界が遮られる。
 俺の目の前に――悪夢が居た。
 桜が俺を『夜鬼』に襲わせたのだ。
 そして――大きな破裂音。
 目の前の『夜鬼』が、飛び散る水と共に弾け飛び視界が開けた時――。

   ――絶望的な時間がゆっくりと流れた。

 巨大な『夜鬼』の岩の様な拳が、背を向けた豊玉を横殴りにしようと迫っていた。
 その時の豊玉は俺の安全を確認してか、安堵したような表情を浮かべて居たような気がする。
 桜は俺に「さぁ、どうする?」とでも言いたげにその光景を楽しそうに見ていた。
 目の前の出来事に周りの景色は色を失い、ネガポジの様に白と黒だけの世界に変わる。
 豊玉を助けに行こうと身体を動かそうとするが、周囲の空気が鉛のように重く身体に纏わり突き、思うように動かせない。
 脳内物質が意識だけを加速させ、身体が意識についていけない様な感覚に陥る事があると、テレビで聞いた事があったな――と焦る気持ちとは別に、妙に冷静な自分がそんな事を思った。
 ――刹那。
 まるでトラックが人をはねたような――実際はそんな所に居合わせたことは無いが――そんな衝突音と共に、豊玉の小さな身体が宙を舞った。
 豊玉の身体は息の詰まるような滞空時間を経て、大きな水柱を立てて池の中に沈む。
 凍り付いていた時間が、まるでせき止められていた水のように勢いよく流れ出した。
「豊玉ぁぁぁあっぁあぁぁぁぁぁぁ!」 
 喉が枯れんばかりの絶叫と共に俺は柵を乗り越え池に飛び込んだ。
 池の水が口に入るのも構わず、まともに泳ぐ事も忘れ豊玉の名前を叫びながら豊玉が沈んだ場所を目指す。
 豊玉が沈んだ辺りで潜って探そうとするが、池の水は濁っていてどこに居るのか把握できない。
 鼻に水が入り、涙が出た。
 その涙が豊玉の無事が確かめられない事で出てくる涙か、自分の無力さを嘆く涙か……恐らく両方だろうが――ただ、胸の奥からあふれ出してきた。
 死んでいるかもしれない。
 そんな最悪な事態が頭に浮かぶが、そんな考えを頭から押し出して無駄かもしれない行為――濁った水の中を潜っては探すを繰り返した。
 どれだけ繰り返したかは憶えていない。
 決して少なくない回数その行為を繰り返した後、橋の欄干に立つ桜を睨み付けた。
「桜ぁッ! てめぇなんでこんな事をするんだよっ!?」
 泣き声のような叫び。
「そいつらは多くの人間を消してきた。だったら自分が逆に殺されたり、消されたりする事は覚悟しているはずだ。その女は今日がその日だった。それだけの事だろう?」
 豊玉を吹き飛ばした『夜鬼』を背後に控えさせてそう応えた。
「豊玉達は悪い『超越者』達を退治してたんだろ!? 俺達の為に自分の平穏な日常を犠牲にしてまでなぁっ! 俺達が平穏な生活ができていたのは豊玉たちのお陰なんだぞ!」
「随分とその女の肩を持つな……惚れたのか?」
「誤魔化してんじゃねぇっ!」
「お前こそこちらの気持ちも知らないでよく言うっ!」
 桜が吼えた。
「平穏な日常を守るだと? なら、そいつらが守ってくれなかった平穏な日常を取り戻そうとするのは悪い事なのかっ!? 平穏だったあの頃に戻りたいと思うのは間違いなのか! ――お前だって、見知らぬ『超越者』の多くの屍体の上に平穏な日常を築いているんだ。平凡な日々をそうやって過ごしているこの世界の全ての人間は、そんな罪を背負っている事に気付かず生きているって事を理解しているのかっ!?」
 まるで泣いているような悲痛な叫びだった。

「私達は……許されるとは思っていない」

 俺の背後からの声。

「私達は……この世界で最も深い罪人」

 静かに――物悲しい響きを持って耳に届く。

「私達は……未だ醒めない夢を見ている人たちの罪を背負う者」

 眼鏡は何処かに飛んでいってしまったのだろうか。
 しかし、はっきりと桜を見つめ――言った。

 ――それが私達がこの世界に存(い)在る理由。

 豊玉は自分の体を抱きしめるようにしながら言う。
 苦痛に歪んだ顔が、先程の一撃でかなりのダメージを受けている事を物語る。
 桜が驚いたようなそれで居て納得したようなそんな表情をした。
「一人でその罪を全て背負うつもりか、お前は」
「一人でじゃない――その罪を分かち合う仲間が存在る」
「そうか……そいつは――」

 ――羨ましいな。

 羨ましい。と、桜はそう寂しげに言って手を上げる。
 それに反応して巨大な『夜鬼』が動き出した。
「桜っ!」
 まだ、戦う気かっ!?
 豊玉はそれに応じて手を横一文字に振るった
 それと同時に、俺と豊玉の周りの水が振るえ波打ち始めた。
 豊玉から青白い光が放たれ水面に広がっていく。

「豊玉姫っ! 出ませぃっ!」

 いつもの豊玉からは想像もつかない程の声量で叫ぶ。
 その叫びに応え豊玉と俺の周囲の水が天に向かって勢いよく立ち上る。
 そして水は俺達を中心に円を描きながら広がり、ひとつの形を成していく。
 ぐちゃぐちゃの水底の感触が靴を通して感じられた。
 水の抵抗から解放された俺が次に見たものは、豊玉と豊玉を守るように傅く巨大な……そう、鰐。
 鰐の姿をとった――桜の操る『夜鬼』よりも遥かに巨大な――水で出来た獣。
 俺はその大きさに圧倒される。
「喰らいなさい! 豊玉姫!」
 豊玉の命に従い、その巨大な水獣は『夜鬼』を丸呑みにしようとその顎を開く。
 豊玉姫と呼ばれたその水獣は瞬く間に、異形なる『夜鬼』を飲み込みその存在を無へと帰した。
 それがこの怪獣大戦争のあっけない決着だった。

 ――そして沈黙。

 俺と豊玉は水が殆ど無くなった池の底から橋の欄干に立つ桜を見上げていた。
「――余興には、出来すぎた芸だったな」
 桜が言う。
「参った。お前は強すぎる」
「彼女を解放してあげて」
 豊玉が静かだが強い口調でそう言う。
「お前の命と引き換えなら解放しよう。お前は少しやっかいだ」
 冷淡に――言う。桜を開放するならば豊玉の命を寄こせと。
「お、お前……桜じゃないのか?」
 俺の場違いな質問に桜の姿をした者は、実に優しく微笑んだ。
 代わりに豊玉がこくりと頷きだけで答える。
 じゃあ、こいつは何なんだ? 桜を俺にけしかけて、豊玉の命と引き換えだと言う。こいつは一体誰なんだよ?
 なんで関係ない奴を巻き込もうとするんだ。
「なぁ、俺にはよくわかんねぇけど、お前が桜じゃないんだったら、桜を解放してくれよ……そいつ関係ねぇじゃねぇか……頼むよ。そいつは俺の――」

 ―――友達なんだ。

 声が震えた。
 桜……いや、桜の姿をしたそいつは、難しい顔をして黙り込んだ。
 池の畔に生えている木々が、夜風にさらさらと葉摺れの音を立てる。
 淡い月の光が、この異質な空間にいる三人を照らしていた。
「本当に。上手くいかないものだな」

 ―――上手く……いかないものだ……。

 そいつはそう二度つぶやいて月を見上げた。上手く……行かないと。
 そして、そいつはそのままふらりと欄干から崩れ落ちる。
「桜っ!」
 つい、声を上げて落ちそうになった桜を抱きとめた。
 結構重かったが高いところから落ちた所為ということにしておこう。
 豊玉が何事も無かったように俺達の元に戻ってきた。
「大丈夫か?」
 こくり。
 弱々しく頷く。怪我が無いわけは無いよな。
 俺に心配を掛けまいとしているのだろうが、余計に心配になる。
「桜は、大丈夫なんだよな?」
 こくり。
 豊玉の反応にほっと一息をつく。体中からすっと緊張が抜けた。
 桜と豊玉が無事なら重畳だ。安心した途端、どっと疲れが俺を襲う。
 立ち上がろうとするが、足ががくがくと震えておぼつかない。
「情けねぇな、俺」
 俺がぼやくと、豊玉はぶんぶんと頭を振る。今はそんな慰めが快かった。
「また、守られちまったな。サンキュ」
 その言葉に俯いてから、こくりと豊玉は応える。

 こんな時なのに今日の月は妙に奇麗に感じられた。


    ◇     ◇     ◇


「おやおや、両手に花の送り狼……いや濡れネズミ君が来たねぇ」
「うるせぇよ」
 三上が差し出してくれたタオルで身体を拭きながら悪態をつく。
 あの後、桜をあのまま放置するわけにも行かず『天津』に背負ってくる事になり、入店時の出迎えの言葉がそれだった。
 三上が本当にメイド服を着ていたのにはびっくりだ。
「まぁまぁ、とりあえずボクの部屋に行っててよ。あ、その前にシャワーの方が良いかな?勝手に使ってくれて良いよ奥にあるからさ」
 ささ、どーぞ。と俺達の背中を押し、店の奥へと進めた。
 確かに、このままだと風邪をひきそうなのは確かだ。
 三上の強い勧めもあり、俺達はシャワーを借りる事になった訳である。
 そして俺のシャワーシーンを三上が覗こうとして、豊玉が撃退したりとか言う微笑ましいエピソードがあったり。
 はぁ。
「なんか……余計に疲れた」
 そんな言葉を吐く俺は着替えが無かった為、店のバーテンの服を借りて着替えた。
 豊玉は、今朝かばんに入れていた制服姿に着替え、テーブルの脇に座っていた。
 二度目になる三上の部屋。
 ベッドには桜が寝かされていた。
 テーブルを挟んで豊玉の向かいに座る。
 俺が座ったのを見計らったように、トレイを持ったメイド三上が部屋に入ってきた。
「やぁやぁ、待たせたね。今日はちゃんとコーヒーにしといたよ」
「当たり前だ!」
 あはははは。と三上は笑う。
 メイドのカチューシャっていうのか? それが揺れた。
「さて、と。此花さんは大丈夫なのかい?」
 その言葉に豊玉が頷く。
「そうかい、なら良かった」
 言いながら俺達の前に飲み物を置く。
 コーヒーの香りが疲れた体に心地よかった。
 三上はベッドの脇に座り、桜の状態を見る。
「『眷属』にはされていないみたいだね。操られていただけか……」
 豊玉はこくりと頷く。
「それは重畳。彼にはまだ理性が残っているようだ」
「なぁ……理性が残ってたら『超越者』って元に戻れたりするのか?」
 三上は少し言いよどみ「無理だよ」と言った。
「そうか――」
 ――上手くいかないもんなんだな。
 あいつの口癖を口にする。
 だが、俺じゃなんかしっくり来ない。
「『超越者』と『覚醒者』の大きな違いは『異形化』と呼ばれるものだ。人の存在力を喰う事で『超越者』は、自分のキャパシティーを超える存在力を得る事が出来る。でも、そのキャパシティーを超えた力はどうなると思う?」
「いや……」
「キャパシティーを超えた存在力を受け入れられるように、『超越者』の体を変化させるんだよ。それが『異形化』と呼ばれる現象さ」
 心配そうに桜の顔を覗き込みながら言う。
「此花さんって可愛いね」
 違った。
 俺はため息をつき、話の続きを促す。
「あぁ、そうだね。他人の存在を喰い『異形化』した時点で、もう日常には戻ってこれない。戻ってくる事は無い」
「そうか」
 俯きながら端的な言葉で俺は答えた。
「優しいね、キミは。まだ助ける方法が無いかを模索している。でも……それでも彼は恐らくあの三人を殺している」
 ああ、そうだな。
「そして、彼の存在を消せば――その三人は殺されなかった事になるだろう」
 ああ、そうだな。
「それに――」
 三上は少し言いづらそうに口にした。
「――彼は手遅れだ。彼は間違いなく『眷属』を一人作っている。それでも、キミは彼を救うというのかい?」
 ああ、そうだな。
「あいつは俺の友達だ」
「どうやって救うというんだい?」
 少し意地の悪い質問だと思うが、俺はある種の覚悟を持って応える。
「あいつの罪は――俺が背負う」
 俺の言葉に、三上はにぃと笑う。
「その覚悟があるなら、キミの望むままボクは力を貸そう。後悔無く、君自身の気が済むように、自分の手で決着を付けられるようにね」
 三上がそこまで言ったところで、俺の携帯が鳴った。
 あいつからのメールだった。そのメールに「了解」とだけ返信し、携帯をポケットに仕舞った。

 まったく、上手くいかないもんだ。

 ――なぁ、逸見。