■B日常■


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「随分と話し込んでしまったね」
 三上がトイレから帰ってきてからは、本当にどうでもいい話ばかりして時間が過ぎてしまった。
 時計を見るともう夜の十時を回っている。
 三上が言っていた通り、Cafe「天津」の店内はまさしくバーっぽい雰囲気を醸し始めていた。
 照明が少し薄暗くなり客層もだいぶ入れ替わったように思える。
 明らかに学生服を着た俺や豊玉は、警察に通報されてもおかしくない時間・空間になったと言えよう。
「さて、まだ話を続けるならいくらでもお付き合いするけど」
 どうする? と首をかしげながら三上は言った。
 いや、そろそろ帰らないと拙いだろう。流石に店側に通報されてしまう。
「何ならボクの部屋で話をしようか? キミは一人暮らしだから門限なんかは無いんだろ?」
 何で知ってるっ?
 いや、それよりも。
「い、いや、それは拙くないかっ? ほら、色々と」
 三上はにやりと意地悪そうな笑みを顔に浮かべ、「行こうか」と言いながら立ち上がった。それに習い豊玉も立ち上がる。
「お、おい……」
 戸惑う俺を傍目に三上と豊玉は店の出口ではなく、店の奥へと向かっていた。
「お、おいっ!?」
 家に帰るんじゃないのかっ!? なんで店の奥に行くんだよっ! と言いたかったが、慌てた所為か、まともな言葉にならなかった。
 そんな俺をやけに楽しそうに見ている三上と、「?」と言うような表情を浮かべた豊玉がこちらを見ている。
「ボクの部屋」
 と、一言だけ言って三上は指を上に向けた。
 そして、店内の空間を示すように大きく手を広げて。
「ボクの家」
 今度は、カウンターテーブルに腕を乗せてもたれ掛かり、カウンター奥のマスターとつい先程出勤してきたバーテンに視線をやった後、俺の方を振り返り。
「ボクの店」
 その言葉と同時に三上の後ろに居たマスターとバーテンがうんうんと頷いた。
「……」
 まぢかよ?
「まぢだぜ?」
 言葉を失っている俺に、実に嬉しそうにそう言った。


 三上の部屋は、何と言うか……ぅん、広かった。
 俺が住んでいるワンルームの三倍くらいはあるだろうか?
 俺の部屋が小さいのは確かだが、それでもしかし広かった。
 なんていうか一般家庭のリビング? みたいな感じの広さだ。
「入り口でぼけーっとしてないで早く入りなよ」
 声をかけられてはっと我に返った。
「あ、いやぁ、金持ちだなぁ……って」
 ご両親はどんな悪い事をしていらっしゃるんでしょうか? と聞きそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「お茶くらいは出すよ。コーヒー、紅茶。あぁキミはアルコールのほうがいい? 一応売るほどあるからさ」
 ろくでもない生徒会長である。「なんでもいい」と言うのがやっとだった。
「まぁ、キミが聞きたい事はもう無いのかもしれないけど」
 いや、頭がオーバーフローしちゃってるのかな? そう言いながら、俺と豊玉の前に飲み物を置く。
 豊玉は紅茶、俺にはウーロン茶だ。どうやら豊玉は紅茶を好むらしい。
「さて、二階に来たのには理由があるんだけど……分かるかな?」
 手に持った飲み物の缶を弄びながら三上は問いかけてくる。
 プルタブを起こすとプシッと炭酸飲料特有の爽快な音がした。
 缶を持ったままベッドに腰掛けてこちらを向いた。
「店内では話しにくい事を話すからとか?」
「あっはっは。人前で話しにくい話なんかないよ。さっきまで話していた内容だって似たようなもんだけど、周りから聞けばちょっと夢見がちなイッちゃってる少年少女の妄想話にしか聞こえないさ」
「確かに。そうかもな」
 あの内容を何も知らない――例えば桜や逸見に話したって、漫画かゲームのやりすぎとか、その程度にしか取られないだろう。
「じゃあ、何で部屋に?」
「どきどきするじゃないか」
「何が?」
「男の子を自分の部屋に招待するなんて」
「知るかぁぁぁぁぁぁっ!」
「おやおや、怒りっぽいんだねぇキミは」
 そんなやり取りをしているのを余所に、豊玉が静かに手を上げていた。
「はい、豊玉さん。なんだい?」
「反対」
「そうか。ボクは賛成だよ。一対一だね」
 何がだ。
「さて、意見は分かれた。後はキミ次第だよ」
「だから、何がだ」
「キミを『覚醒者』として目覚めさせるか、全て忘れてまた眠ってもらうか…だよ」
「俺に『覚醒者』になれって言うのか」
「ボクはね」
 その方が、安全だとボクは判断する。と続けた。
「私達が守ればいい」
 豊玉が時より見せる断固たる意思を持った声で言う。
「限界があるだろう? 彼がお風呂に入っているときもついていくって言うのかい? 豊玉さんが彼と一緒にお風呂に入って守るって言うなら構わないよ? だけど違う意味で豊玉さんに身の危険があるだろう。ボクが一緒にお風呂に入って守るのでも構わないけど、その場合は彼の貞操の保障は出来ない」
 どんな話だ。聞いてるこっちが恥かしくなるわ。
 顔が熱い。多分他人が見たら俺の顔は真っ赤になっている事だろう。
 三上の貞操感覚は一体どうなっているのか、頭ん中を確認したいものである。
 向かいに座っている豊玉も俯いていて表情は見えなかったが、かろうじて見える耳は真っ赤になっていた。
「と、まぁこんな風にボクと豊玉さんの意見は一対一に分かれている訳だ。後はキミが決めてくれ」
「お前が完全にやり込めたようにしか見えないが……」
「気のせいだよ」
 どう気のせいなのか教えて欲しいもんだ。
 半眼で見る俺に――さて、状況を整理しよう。と三上は言った。
「今、キミは半覚醒状態にある。このまま放っておいても『覚醒』するだろう。だが、それを待っている間に『超越者』に襲われて、存在を喰われてしまう可能性が高い。実際に『夜鬼』に襲われている訳だしね。だったら、ここで『覚醒』してもらい、ボクらが力の使い方を教えて、抵抗する方法をキミに持っていてもらった方が安全だと……ボクは判断するわけさ」
「半覚醒状態? 俺が?」
「そうだよ。そうじゃなければ、さっきの『夜鬼』の事なんて憶えていられないよ」
「どういう事だ?」
「さっきも言ったとおり存在を消された物は誰の記憶にも残らない。でも『覚醒者』は、『存在を消された』という『事実の存在』を忘れないんだ――『存在』を消されたと言う現実を認識できる人間。それが『覚醒者』ってヤツだよ」
 『存在』を消されたものが居ると言う事実から目を背ける事が出来ないって事さ。と、そこまで言って缶を煽る三上の喉からごくりと液体を飲み下す音がした。
「分かりにくいな」
「まぁ雰囲気でるだろ? 難しく言ったほうがさ」
 雰囲気重視なのかよ。
 確かにそれっぽく聞こえるけどな。
「簡単に言えば『覚醒者』の記憶からは『存在』は消えない。憶えていられるんだよ。存在が……消えてもね」
 目を少し細めて誰にとも無く言った。
 何かつらい事を思い出すかのように。
 そして、す。と、憂いを帯びた目をこちらに向けて……。
「遠い目の美少女ってそそる?」
「うるせぇっ! そんないらねぇ演出してんじゃねぇっ!」
「ふふふふふふ。でも、『過去になんかつらい事でもあったんだろうか』とか思っただろう? なんてったってキミはピュアだからね」
 思ったけどなっ!
「ちょっと引っ掻き回しすぎたかな? さて、どうする?」
「どうって、何がだ?」
「『覚醒者』になるかならないか」
 単刀直入に聞いてきた。
「もし『覚醒者』にならないと言うならば、君の記憶を頂く事になる」
「頂くって……どういうことだ?」
「記憶の『存在』を消すってことさ。戦わないのであればボク達のような存在については覚えていない方が平穏な生活を過ごせるしね」
 そんな事が出来るのか?
「『覚醒者』の中には、全て忘れて現実という夢に戻りたいと言う人が少なからずいるのさ。憶えているには辛すぎる事もあるからね」
 ――でも、だからこそ、『超越者』との戦いを選ぶ人もいるけどさ。
 そう言って三上は再び缶を煽った。
「考える時間はあるよ、記憶を消す事のできる人が今は出払っていてね。数日すれば向こうの処理も終わって帰ってくると思うけど」
 人手不足なんだよ。記憶をいじる能力者はレアでね。引く手数多なのさ。と苦笑いをしながら言った。
「少し、考えさせてくれ」
「いい返事を期待しているよ」
 と、突然三上は俺の横に座ってしなだれかかってきた。
「な、なんのつもりでしょうか三上さん?」
 なぜか丁寧語になっってしまった。
「ん〜いい返事聞けないかなぁと……」
「ちょ、ちょっと近すぎるような気がするんですけれども」
「ほら、結論が出るまではキミの身を守らないといけないしねぇ、だからぴったりくっついているんだよ?」
 い、色仕掛けかっ!?
 くっ……なんかいい匂いがするっ!?
「ちょ、ちょっと、離れてくださいませんでしょうか?」
「お断りだよ」
 と三上が言ったあたりで、俺と三上は引き離された。
「……」
 豊玉だった。力ずくで引き離した三上と俺の間に無言で座る。
 表情はいつものように変わらないが、心なしか怒っているような雰囲気だった。
 なんだ、この微妙に気まずい雰囲気は?
 場をつなぐ……というか、ごまかす様にグラスを煽る。
「ぶっ!」
 とてつもなく熱い液体が俺の喉を通りそうになって噴出した。
「こ、これっ、酒じゃねぇか!」
 咳き込みながらグラスを置いた三上を非難する。
「だって、なんでもいいって言ったじゃないかっ!」
「高校生にアルコールを出すなっ! 仮にも生徒会長だろ!? 校則に反するってか法律に、世間に、社会に反してるだろっ! あっ、てめぇの持ってる奴も酒じゃねぇかっ!?」
「ボクはね、学生時代にお酒を嗜まないから、大学や社会人になってからの新歓コンパとかで急性アルコール中毒になるって思うんだよ」
「いや、思うんだよじゃねぇっ! 高校生が嗜むなっ!」
「ウィスキーが駄目なら何がいいって言うんだよキミはっ!?」
「何だって駄目だっ! 普通にコーラとかウーロン茶とか出せよっ!」
 つ、疲れる。
 今朝、似たような事やった気がするぞ、俺。
「おまえ。桜と方向性似てる」
「あぁ、キミ達のいつものやり取りを真似したからね」
 平穏な日常が楽しそうじゃないか、いつも。と、さらりと言った。
「『覚醒者』になれば、キミの平穏な日常と引き換えに彼女達の平穏な日常を守る事が出来るんだよ」
 俺の日常と引き換えに。桜や逸見の日常を守る事が出来る……。
 重い言葉だった。
「ヘヴィな話だな」
「ヘヴィな話だよ。意外に発音いいねキミ」
 本当にどうでもいい。脊椎反射で応対してないかお前。
 凄くシリアスな話をしていると思うんだが、とてつもなく軽い話に感じてしまう。
 平穏で退屈な日常。そう、退屈している日常だったはず。
 そして今、俺の目の前には求めてやまなかった非日常への入り口がぽっかりと開いている。
 それなのに、求めてやまなかった非日常に足を踏み出す事に気後れしている俺がいた。
「俺に、お前らみたいな事が出来るとは思えないぞ」
「誰だって最初は初心者さ」
 そう言って笑う三上や豊玉が、今みたいに戦えるようになるには、どれくらい時間が必要だったのだろうか?  ちらりと豊玉を見るが、俺がどう答えるのかを眼鏡越しのあの瞳でじっと見つめていた。

「豊玉が反対する理由は?」
 不意に質問した。
 質問を投げかけられた豊玉は少し……いや、たっぷりの間を取ってから答えた。
「『覚醒者』は『超越者』を消す。そのための存在。あなたは人を殺したい? 誰かの存在を無き物にしたい?」
 ――『覚醒者』になると言う事は……そういう事。
 『覚醒者』が人ならば『超越者』も人。だから、俺に人殺しになる覚悟はあるのか。と、豊玉は言いたいようだった。
「私は。あなたにそんな事をさせたくない。そして……」
 そこでふと言葉を止め、俺から視線を外して続けた。
「人を殺したと言う事実は……あなたの心にとても深い傷をつける」
 だから…反対。と締め括った。
 豊玉にしては良く喋ったのだと思う。
「さっきも言ったとおり、まだ多少の時間はあるさ。考えておいてくれ」
 三上はにやりと笑って言った――。


 ***     *** ***


 結局。
 昨日はあの後なんだかんだあったが流れ解散となった。
 泊まっていけば? と言う三上の言葉は丁重にお断りして。
 そして今日も今日とて……。
「ふぁぁぁあぁぁぁ……」
 眠いわけだ。
 昨日はあれ以降何事も無く、家に帰ってそのまま寝てしまった。
 帰ってきたときには日付が変わっていたのは間違いないと思う。
 俺は自分の目で見たものしか信じない性質だが、実際に見てしまったのだから信じる他無い。
 狙われているという実際の危険を孕んだ非日常を知ってしまうと、あれほど退屈だった日常が恋しく思うのは我侭だろうか。
 我侭なんだろうな、畜生め。
 朝のまどろみに身を任せ、もう一度ベッドに倒れこみたい衝動を抑えて、何とか学校に行く準備をする。
 いつものように焼いてない食パンをかじって、いつものように顔を洗って、いつものように制服を着る。
 いつもと同じ。
 違うのは、俺自身の世界に対する認識だった。
 昨日まで自分の常識の世界にはいなかった『覚醒者』という超能力者がいる事。
 そして人を。人の存在を喰う『人間』……がいる事。
 そんな事を知りながら、いつも通り普通の学生生活を過ごそうとする自分の感覚には驚いた。
 まぁ、今日俺が休んだら新たな行方不明者に数えられてしまうだろうしな。
 バイクの鍵をポケットに突っ込み、俺は部屋の扉を開いた……ら、居た。
 ぺこりと挨拶をする。
「ずっと待ってたのか? ドアの前で」
 こくりとそいつは頷いた。

   ……豊玉だった。

 いつから待っていたのかは知らないが、どうやら豊玉は俺のボディーガードにつく為にずっと待ってくれていたらしい。
 バイクの駐車場に行く途中で豊玉から読み取った内容だ。
 大分慣れてきたなこいつとのコミュニケーション。
「ここから歩きじゃ遅刻だろ? 後ろ乗せてやるよ」
 ちょっと、かっこつけてみた。豊玉はその言葉に首をかしげながら……頷いた。
 まさか、バイクを知らないわけは……無いよな。
 などと思ったその直ぐ後に豊玉が首を傾げた理由が分かった。
「……そういえば、昨日バイク置いてきたんだった」
 どうやら豊玉は俺がもう一台バイクを持っていると思ったらしい。
「いつもと変わった事すると、駄目だな……」
 バイクの無い駐車場を眺めながらため息をつく。
 昨日はいつもと違う事が起こりすぎたのも確かだ。
「わり。遅刻になっちまうけど……歩くか」
 こくり。豊玉は不満も言わず頷いた。高校になって始めての遅刻だ。
 これで俺も正式に不良の仲間入りか。
 せめて出席だけはきっちりとしておきたかったんだが……こればっかりはどうしようもない。
 そうして、俺と豊玉は昨日の帰りと同じく肩を並べて学校に行く事になった。
 昨日の天気とは打って変わって、今日は晴天だった。雲は少し残ってはいるが、のんびりとしたいい天気だった。このままどこかに出かけてしまいたいくらいだ。

 ……。

 俺はおもむろに携帯を取り出し電話を掛ける。
 名を名乗り、昨日の雨に濡れて熱を出してしまった為今日は欠席する旨を伝えた。
 もちろん、学校にだ。
「ぉし。今日は学校は自主的に休むわ」
 豊玉にそう告げる。
 もう皆勤じゃなくなるのであれば、遅刻も休みも一緒だしな。
 俺は大きく伸びをして、空を見上げる。
 ――いい天気だ。
 こんなに清々しい気持ちになったのは久しぶりだった。
 たまにはこう言うのも良いかも知れない。
 視線を戻すと、豊玉も電話していた。
「はい……すみません」
 と言う言葉で締めくくると、電話を切る。
 そして俺の方を見て「私も……休んだ」と言った。
「お、おいおいっ!? お前は休んじゃ駄目だろっ? 優等生なんだからっ!」
「私は、あなたのボディーガードだから」
 それだけ言って、メガネ越しに俺の目を真っ向から見返した。
 その瞳から感じる強い意思はちょっとやそっとでは変わりそうにない。
 そうかよ――。
「いい天気だしな?」
 その言葉に豊玉はこくりと頷いた。


 その後、俺は制服のままじゃ目立ちすぎると思い、とりあえず部屋に戻って着替えた。
 適当なワイシャツとジーンズという軽装だ。
 まぁ、身軽なほうがいいだろう。
 俺の着替えが終わるまで、豊玉には外で待ってもらった。
「さて、どこに行く?」
 いや、豊玉に聞くのは間違いだった。こいつのキャラ作りは徹底している。
「着替えたほうが良いし。まずは、お前んちか?」
 豊玉は首を横に振って、肩に掛けているカバンを開ける。
 中から出てきたのは私服らしい服だった。
 落ち着いた色のシックなシャツと、細身のジーンズのようだ。
 スカートじゃないのは動きやすさ優先と言ったところか。
「……こんな事もあろうかと」
 ぼそりと言った。
 そして豊玉は手に服を持ったまま、俺と入れ替わりに俺の部屋に黙って入って、かちり。と鍵を閉めた。
 ……俺は締め出しかよ。
 しかし、なんか自分の部屋で女の子が着替えをしてるってシチュエーションって……なんか、どきどきするようなしないような……。
 そんな妄想もそこそこに再び、かちり。と音を立ててドアが開いた。
「カバンは置いてきたのか?」
 こくり。
 そういえば、クラスメイトの私服姿ってあんまり見ないよな。
 プライベートで会う程仲のいい友達がいないというのもあるが、せいぜい逸見か桜の私服姿くらいしか見た覚えが無い。
「クラスメイトの私服ってあんまり見ないよな」
 こくり。
 さっきカバンから取り出した服に、ミネラルウォーターのペットボトルを腰のボトルホルダーに挿していた。
 で、改めてどこに行くか決める事になった。
 豊玉は例のごとく何も言わずじっと俺を見ている。
「行きたい所とか無いか?」
 こくり。
「どこも?」
 こくり。
 聞くだけ無駄だった。
「どこでもいいのか?」
 こくり。
 やはり頷くだけだった――。


 ――特別……行く宛ては無かった。
 ただ、何となく足が向いたのが、アパートからそう遠くない自然公園だった。
 池を中心にして、ぐるりと周囲を囲むように公園が広がっており、周辺住民の憩いの場として奇麗に整備されている。
 池の周りには柵が張られており、『危険! 釣り禁止』といった看板が立てられているが、釣り人たちは意に介することもなく池に釣り糸をたらしていた。
 今となっては全く想像が付かないが、この池では昔ワカサギが釣れたらしい。
 現在はブラックバスが我が物顔で泳ぎバス釣りのポイントとなっている。
 そのブラックバスにワカサギは全部食べられて、今この池にはワカサギは存在しない。
 ワカサギのてんぷらが好きな俺としては実に残念な話である。
 さらさらと木々がさざめく音が耳に聞こえ、心地よい風が肌を撫でる。
 まだ少し暑いが、いい陽気だった。
 もう一、二ヶ月もすれば紅葉も始まり、公園内の木は紅く染まっていく事だろう。
 池の周りのそんな散歩道を俺達は二人で歩いていた。
 楽しい会話でもあればデート気分にもなるかもしれないが、もちろん豊玉は話しかけても頷きしか返してこない。
「なぁ」  懲りずに声を掛けてみた。俺は寂しがり屋なんだ。
「お前はいつからそうなんだ」
 いつから『覚醒者』になったんだ。
 いつから……戦い続けてきたんだお前は。
 そんな小さな身体で、俺達の日常をいつから守ってきたんだ?
 言葉足らずではあったが、色々な事が含まれた言葉だったと思う。
 少し…豊玉は考えこんでから口を開いた。
「……十歳の時」
「そ、そんな頃からあんなのと戦ってきたのか?」
 俺の言葉に豊玉は首を横に振る。
「実際に……『超越者』と戦い始めたのはテルと会ってから」
「テル?」
 ――三上さんの事。と豊玉は付け加えた。
 こいつは三上の事をテルと呼ぶのか……ちょっと意外だった。
「なるほど。んじゃ高校に入ってからって事か?」
「テルとは中学校で同じクラスになったのが最初」
 お。意外に喋ってくれるな。少し寂しがり屋の俺の心が満たされる。
「へぇ、同じ中学だったのか」
 こくり。
「んじゃ、五年くらい『超越者』と戦ってるんだな」
 こくり。豊玉はやはり頷く。
 俺は歩くのを止め、散歩道の脇にある柵に腰かけた。
 豊玉の顔を自分の視界に納める。
「お前は、なんで戦うんだ?」
 豊玉はただ、黙り込む。
 さらさら……さらさら……木々がざわめく。
 遠くで釣り人達の声がする。
 鳥の羽ばたく音、鳴き声。
「自分の世界を……守る為」
 そして、豊玉の声。改めて奇麗な声だと……思った。
 メガネの所為で表情ははっきりとは分からなかったが、どこか悲しそうで、辛そうで、儚く感じられた。
「辛そうだな、なんか」
 首を横に振った。どこか弱々しく見えたのは俺の気のせいだろうか。
 豊玉は俺の横で柵に腕を置いてもたれ掛かる。
 ――少しの間。そして豊玉が口を開く
「もし、あなたが戦う事を選んだとしても……私はあなたを守る。だから……大丈夫」
 俺がその事に関して悩んでいるのを見透かしていたのだろうか。
 豊玉はそれ以上は何も言わず、日の光を反射してキラキラと光る池の水面をまぶしそうに見つめていた。
 豊玉は俺が『覚醒者』になる事に反対していた。
 しかし、もし俺が『覚醒者』になっても、こいつは守ってくれると言う。
 こいつが何でこんなにも俺を守る事に拘るのかは分からないが、それでも……ちょっと照れ臭いが、嬉しかった。
「強いよな、お前はさ」
 その言葉に首を横に振り――。
「――私は、臆病なだけ」
 ぽつり、と言った。
 豊玉の視線の先には、遠くに見える橋の上を渡る母子の姿が見えた。
 穏やかな日だった。
「こんな穏やかな日常を壊されるのが怖いだけ」
 あぁ、そうだな。と俺は答えた――。
 ずっとこんな日が続けばいいと思う。
 そこまで思ってつい苦笑した。
 昨日までの俺は退屈な日常に飽き飽きしていたはずだったのに、こんな平穏な日常が続く事を望んでる自分が滑稽に思えたからだ。
「いいよな、こんな日も」
 そう、こんな――平穏で退屈な……でも少し幸せな日々が続くと良い。
 今は素直にそう思えた。

 昼頃に俺のポケットの中で携帯がメールの着信を知らせて鳴った。
 あの後も豊玉に何かを聞こうと思ったりしたが、あれっきり豊玉は口を開かなかった。
 まぁ、いい奴なんだよな。
 ただ、何でここまで俺を守る事に固執するのかは判断付かないのだが……変な期待をしてしまうと後で後悔してしまいそうだから止めておく。
 メガネを外すと結構可愛いんだよな…こいつ。
 そんな豊玉の横顔を見ていると、ふと豊玉の視線と合ってしまった。なんか気まずくなってしまい、慌てて俺はポケットから携帯電話を取り出しメールを確認する。
 桜からだった。

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差出人:サクラ
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件名 :大丈夫?
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おぃおぃ、真面目な不良!!
どしたん? 風邪で休むって珍しくない?

ちゃんと病院行けよ〜? 薬飲んだ?
岩永とお見舞い行くから、それまでちゃんと寝とくんだよ〜?

あたしの手料理食わせてやるから、
覚悟しとけ、てめぇ(笑)

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 覚悟って、何の覚悟だ。
 メールを確認してるところに電話が掛かってきた。
 桜だった。
 ……ここで電話でたら学校サボってるのばれるよな。
 不思議そうな顔で豊玉がこちらを見ていた。
 電話に出ないで、しばらく放置してると呼び出し音は切れる。
 そして、一分もしない内にまた掛かってくた。
 諦め悪っ!?
 また、放置。さっきと同じくしばらく放置していると呼び出し音は止まった。
 そして今度はメールの着信音。

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差出人:サクラ
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件名 :大丈夫?
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寝てんの?

なら、そのまま寝てるんだよ〜
豪勢な晩御飯にしてあげるから楽しみにしてるんだよ〜。

あ、でも、そんな食欲ないか?
今日は岩永もあたしも部活休んで行くからね。

よろしくぅ♪

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 妙なテンションの高さである。
 こいつは病人の部屋に一体「お見舞い」呼ばれる家捜しをしにくるつもりじゃねぇのか?と疑いたくなる。
 引き出しの奥の例のヤツは隠しなおさなくてはいけないだろう。
「桜達が見舞いに来るってよ。帰らねぇといけねぇみたいだ」
 俺がそう言うと、豊玉はこくりと頷いた。
 ぱたりと携帯を閉じると、また携帯が着信音と共に震えた。

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差出人:サクラ
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件名 :ごめ。
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三上さんも来るって……阻止出来ませんでした。

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 急に嵐が来る予感がした。
 戸締りちゃんとしておかないと……。

 豊玉と出かけていた俺は、桜からのメールに慌てて自分の部屋に帰ってきたわけだった。(隠さなきゃいけないものもあったしな)
 アパート前で豊玉にかばんを渡して別れ、部屋に入り寝巻きに着替える。
 俺が寝巻きに着替え終わった頃を見計らったように、玄関のチャイムが鳴った。
 本当にぎりぎりだったみたいだな。
 かくして。
 メールの予告どおり、桜と逸見は件の嵐を引き連れてやってきた。
「ふむふむ。いいね。クラスの男の子の部屋に入るなんて初めての経験だよ。おめでとうキミはボクの初めての人だ」
 ドアを開けた途端、俺の部屋に大雨、強風、雷、ありとあらゆる警報が鳴り響く。
 桜が小さな声で「ごめんね」と、本当にすまなそうに言った。
「生徒会長。曲がりなりにもここは病人の部屋だ。もう少し静かにしたらどうだ」
「あぁ、すまないね。少し調子に乗りすぎてしまった様だよ」
 逸見の言葉に三上はちらりと俺の方をみてニヤリと笑う。
 なぜ俺を見る。
「大丈夫? いろんな意味で」
「あぁ……」
 桜の言葉に疲れたようにそう答え、こめかみを抑えながらため息をついた。
 三上は狭い俺の部屋を物色し始め……
「すんなっ! 三上、おとなしく座ってろよ。頼むからっ!」
「あ、あぁ。バスルームはここかい?」
 俺の話を聞いているか?
 そんな俺と三上のやり取りを余所に、逸見は慣れた風にテーブルの脇に座り、桜は「この辺いいかな?」と言って俺の了承を取ってから逸見に習って座った。
 三上を目の当たりにすると、桜がとてもしおらしく見える。
 今の三上の立ち位置はいつもの桜の立ち位置だからだろうか、桜は微妙に所在無さ気に部屋の中を見回していた。
そういえば桜も初めてだったか? 俺の部屋に入るのは。
 それはそれとして……。
「なんでまた三上が来る事になったんだ?」
 逸見に聞く。
「それは生徒会長として、そして学級委員長としてキミの体を案じたからだよ」
 ひょこっとバスルームから顔を出して三上が言った。
 てめぇには聞いてねぇよ。いい加減落ち着け。
「あぁ……生徒会長に今日お前の見舞いに行くという話を聞かれてな。強引について来られてしまった」
 逸見は小声で答える。
 ちらりとバスルームの方を見ると、顔を半分だけ出してにやぁりと嫌な笑いを浮かべている三上が見えた。
 こいつ本当に学校のカリスマなのかよ?
「まぁ、最近行方不明事件とかあって物騒だしね。生徒の安全を守るのもボクの役目って事さ」
 気が済んだのかバスルームから出てきた三上は言う。
 俺の狭い部屋……ましてバスルームにこいつの興味を引くものなどあったとは思えないが、やや満足気味な顔をしていた。
 三上は俺の隣に座ると……
「さて、何しに来たんだっけ?」
 と、のたまった。
 俺含む三人が同時にため息をつく。
 桜と逸見にここまで強いシンパシーってのを感じたのは初めてだったかもしれない。
 はぁ……。


「ご、ご飯の支度するね」
 桜がやっとと言った風に当初の『お見舞い』を執行する為に動き出した。
 いそいそと脇においてあった買い物袋を持ち、一人暮らしの小さなキッチンへと行く。
 どこから出したのかエプロンを出し身に着けるとなかなかサマになっていた。
 そして、キッチンでちょっとがさごそした後、桜が帰ってきた。
「ねぇ、包丁は?」
 無い。
「……まな板とか?」
 見かけた覚えはないな。
「……えと、鍋とかフライパンなんか……」
 それなら流しに使ってあったのがあるだろ?
「何とか言ったらどうなんだよ!」
「あぁ、すまない頭ん中で答えてた」
「なんだよそれっ! はぁ……で、結局無いんだよね包丁?」
 ため息を付きうなだれてから、上目遣いで聞いてくる。
「うむ。刃物は危ないからな。俺の家にはハサミくらいしかない」
「ハサミで料理しろとっ!?」
 そうは言っていないと思うが。
「わかった。買ってくるよ」
 と、俺が腰掛けていたベッドから立ち上がると「あ〜、君は病人なんだから、寝てなさいっ! 私が行って来るから」とエプロンを外して部屋から出て行った。
 三上はにやにやしながらそんな光景を眺めており、そして逸見はいつもの事のように涼しい顔をして言う。
「お前本当に風邪をひいているのか? サボりはあまり関心せんぞ。まぁ、普段学校を休んだりしないお前が休んだんだから、風邪じゃないにしても何か理由があるんだろうがな――あえて理由は聞かないさ」
「ん? あぁ、今朝は調子悪かったんだよ……熱もあったし、咳もでたしなぁ……」
 我ながら白々しい回答だった。
「はっはっは。そういう事にしておこう」
 ばれてら。
 正直逸見をごまかせるとは思っていなかったけどな。
「ふむふむふむ。ツーカーの仲だね、キミ達は。仲良き事はすばらしき事だよ。友情と言うものはお金では買えない貴重なものだ。キミ達のその友情の末席にボクも加えてもらいたいものだよ」
 お断りだ。
「さて、丁度此花さんがいない訳だし、ボクがここにいる理由を話そうかな。もちろん、キミと逸見君は関係している……と思うよ?」
 桜が居ると不都合がある話なのか?
 人差し指を立て、名探偵よろしく斜に構えて三上はそう言った。
「どういうことだ?」
 俺は逸見の顔をちらりと見てから聞く。
「行方不明事件さ」
 行方不明事件って、今三人くらい失踪している例の奴の事だろうか?
「どういう事だ? それに俺達がどう関係があるんだ?」
「あぁ、まぁ行方不明事件に直接は関係ないかもしれないんだけど……行方不明になった三人には覚えがあるんじゃないかな? とボクは思うんだよね」
 少し含みのある声音で三上は言う。
「加賀 巧、仁科 清二、兼平 翔太」
 この三人が少年院から仮出所中に行方不明になっている。ニュースでも名前出ていたから知っているかもしれないけどね。と三上は続ける。
 ぴくりと、逸見が反応した気がした。
「……ん? よく分かんねぇけど……」
 俺が呆けた顔で三上を見ていると、
「あはははははは。キミらしいね。人の名前を憶えるのは本当に苦手みたいだ。でも、岩永君は行方不明になった三人に心当たりあるみたいだけど?」
 三上のその言葉に逸見を見る。
「お前、本当に忘れたのか?」
「ん? あぁ……誰だ?」
「お前が剣道部をやめるきっかけになった連中だよ」
 吐き捨てるように逸見が言った。
「その通り。キミが被害者でも有り、加害者にもなった去年起こった例の事件の関係者さ。その事件の所為でキミは剣道部を辞める事になった――というより、自分の意思で辞めたんだったよね?」
 あぁ、そうだ。
 三上は芝居がかった調子で話し出した。
「ある町に婦女暴行を繰り返す非人道的な仲良し三人組が居ました。その三人組は女の子に乱暴を働いた際に、か弱い女の子達のそういった写真を撮り、警察に通報すれば写真をインターネットや学校にばら撒くと言い口止めをしていました。その為、その婦女暴行の事実は中々表沙汰にならず、三人は調子に乗って悪事を重ねていきました。被害者は一人、また一人と増えていくばかりです」
 まるで子供に絵本を読み聞かせるように、優しく、時には抑揚をつけて三上は続ける。
「そんな中その三人組の悪事を知り、立ち上がった一人の若者が居ました。若者はそう言った噂には表面上『くだらねぇ』等と興味を持たない様に見せていました。しかし実際はそれとなく三人組が悪事を働きそうな場所を見回ったりと、か弱い女の子達の安全を守る為、日々、町の警備に当たっていたのです」
「別に、そんな」
 そんなつもりじゃなかった……と思う。
 俺が口をはさもうとすると、三上はこっちに目をむけ軽くウィンクを返した。
 一体何のつもりだ。
「そして、若者はついに三人組の悪事の現場を抑えたのです。三人組はいつものように女の子に乱暴を働こうとしていました」
 女の子?
「自堕落な欲望に溺れていた三人組は、剣道に励んでいた若者の正義の剣に勝てるはずも無く、瞬く間に懲らしめられました。若者は女の子を救い出し、その女の子と幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
 ただ、その若者の自分のした事を後悔して、自ら剣を手放す事になったと言う少し悲しいエピソードが後に付くけどね。という言葉で締め括った。
「あの場に……女は居なかったはずだ」
 俺が疑問に思った事を俺ではなく、逸見がそう言った。
「まぁ、事実を元にしたフィクションってヤツさ。捕らわれのお姫様が居たほうが話としても盛り上がるだろう? それに岩永君が言うとおり、事件当時女の子がそこに居た事実は無い。そしてその現場に居た若者もそう証言している――そうだね?」
「あ、あぁ」
 問う三上に俺はそう答えた。
「でも、ボクは本当にそうだったのか、女の子は本当に居なかったのだろうか……と思っている」
「どういう意味だよ」
「これは本人達からの証言だけど、現場は三人が女の子に乱暴を働く時だけ使っていたらしいよ。それなのにその日に限って女の子を連れ込んでいないなんて……おかしいと思わないかい?」
 確かに、そう言われると、どこかおかしい気もする。
 だが、女の子が居た、居なかったに関わらず俺の胸に何か引っかかる。
 昨日豊玉に会ったときから、まるで喉に刺さった魚の骨のような、チクリと痛む変な違和感がずっと付いて回っている。
 一体どういう事なんだろうね? とニヤニヤしながら三上は俺と逸見を順に見た。
「くだらない話だ。存在しない人間の事をあれこれいっても仕方が無いだろう?」
「岩永君。それは違う。存在したかもしれない人間の話さ。その方がしっくり来る気が……ボクはするんだ」

 ――今話したこの物語は。

 その言葉を最後に三上はニコニコしながら黙り込んだ。
 なんか三上、逸見に突っかかっているような態度だな。
 俺の部屋なのに俺が居づらい雰囲気って、なんか間違っている気がする。
「俺は例え話は好きじゃないんでな。生徒会長の妄想についてはいけない」
「ボクはその時の当事者だった若者や剣道部のお仲間にご意見を聞きたかっただけだよ。深い意味は無い。まぁ女の子の話は別として、今起こっている行方不明事件と、去年の事件に共通点があるのではないか……と言うボクの推理だよ」
「推理して、どうするつもりだ」
「ははは、ボクになんかどうも出来ないよ。どうにかするのはいつもその当事者達さ。何かお手伝いが出来るのであれば、するけどね」
 こいつ特有のシニカルな笑み。
「俺達みたいなただの学生はただ勉学かスポーツに励んでいればいい、事件の事など気にする必要は無いだろう」 「まぁ、推理するのは自由じゃないか。ボクの楽しみの一つだしね」
「推理するのは自由だ。だが、人の過去に無遠慮に踏み入るのはあまり好ましくない」
「あぁ、そうだね。自重しよう」
 三上は笑顔を絶やさない。
「いやぁ、ボクの考えを聞いてくれて有難う。実に嬉しいよ。最近ボクの話を聞いてくれる人が少なくて寂しかったんだ。今後とも何卒仲良くして欲しいものだよ」
「この程度なら構わない。が、好奇心猫を殺すと言う。その好奇心で生徒会長が猫にならないことを祈るのみだ」  ボクは猫は好きだけどね。と三上は言い残して立ち上がった。
「三上?」
「ん?どうしたんだい?」
「いや、どこ行くんだ?」
「ふふふふふ。どこかでやったやり取りだね」
「あ。いや」
「あははは。キミは本当に可愛いねぇ。ボクはそろそろお暇するよ、楽しい時間はあっという間に過ぎるもんだね。でもボクも家の手伝いをしなくちゃならないんだよ」
「手伝い? でも、あそこは……」
「まぁ、趣味さ。メイド服着てウェイトレスをしてるんだよ」
 趣味なのかメイドのウェイトレス。
「今度見に来るといいよ」
 と、ウィンクを一つ返し玄関から出て行った。


   ほぼ入れ違いで桜が帰ってきた。
「あれ、三上さん帰っちゃったんだ?」
「何しに来たんだろうな」
 ため息とともにそう答える。
「でもさ、君、いつの間に彼女と仲良くなったの? 昨日は名前言っても記憶にすら残ってなかったのに」
 あ。
「そうだな、それは俺も気になった。一体どういうことか事情を聞きたいもんだ」
「彼女、なんか君にご執心だったみたいだし。一体どういうことかな?」
 二人に詰め寄られる。
 ん、あー……と言い訳を探す。
「まぁ、顔を見たら思い出した。みたいな?」
「それだけの割には親しげだったけど?」
 桜がずずぃっと近寄ってくる。
 迫力のある視線に、目を合わせられない俺が居た。
「ほら、親しき仲にも礼儀あり……だろ?」
「意味わかんないよっ!?」
 俺も同感だ。
「まぁ、その辺にしておけ桜。そいつの悪事などお前の手に掛かればあっという間に陽のあたるところに引きずり出せるだろう?」
「ぅん、そうだけどさ」
 そうなのかっ!?俺知らなかったっ!
 別の意味で大きな驚きである。てか悪事って。
「しかし、あの女は危ういぞ。あまり親しくするのは止めたほうがいい」
 確かに、いろんな意味で危ないのは知っているが、逸見が他人の事をそういう風に言うのは珍しかった。
「そうだよ! 君の貞操の危機だ! あたしとサドとマゾの関係になる運命なのにっ!」
「うるせぇっ! 人ん家でサドとかマゾとか叫ぶなっ!」
「君だって叫んでるじゃんか。我侭な奴だなぁ」
「俺は良いんだよ! 自分の家なんだから」
 横暴だ〜、暴君だ〜、サディストだ〜等と抗議する桜に方向の修正を図るため「お前、何しに来たんだ?」と聞いた。
 桜は少し考えた後「……お見舞い?」と言う。なぜ疑問符が付くのだろうか。自信ねぇのか?
「ほら、だったらそのお見舞いとやらを遂行しろよ」
 手をひらひらと急かすようにする。
 それにしぶしぶ答えるように桜はキッチンのほうに向かった。
 苦笑しながらそのやり取りを見ていた逸見に、やれやれといった風に肩をすくめて見せる。
「なんか、俺疲れたよ」
「まぁ、お前が元気そうで何よりだ」
 まぁな。と笑った。
 キッチンからトントンという小気味いい音が聞こえる。
 音を聞く限りでは桜は料理が上手そうだ。……意外だな。
 そういえば、前にクッキーを焼いてきたが美味かった。
こいつに運動以外にこんな才能があるなんて神様はずるい気がする。
 そんな事を思っていると、逸見が小声で俺に聞いてきた。
「お前、生徒会長――あの女と何があった?」
「べ、別に?」
 ほほぅ。と面白そうに笑いやがる。
「勘ぐるなよ? 本当に何もねぇんだから」
「じゃ、あの女の馴れ馴れしさはなんだ?」
「はぁ? 誰に対してもあんなんじゃないのか?」
「そんな訳無いだろう、学校であんな風に喋ってるの見たこと無いぞ。どちらかと言うと、もっと凛としてて近寄りづらい印象がある。実際まともに喋ったのは俺も今日が初めてだったかもしれんが…俺も桜もあの調子で話しかけられてびっくりした位だ」
 そうなのか。学校では猫を被っていると言う事だろうか?
「俺が昨日会った時は最初から……」
 その言葉に逸見はニヤリと不敵に笑った。
「ほぅ、昨日だったか。まぁ三上の言葉からそうだとは思ったがな」

 ――ふふふふふ。どこかでやったやり取りだね。

 あ。
「弱みでも握られたのか?」
「あ、いや。そういうわけじゃないけど」
「言えないのか? 俺達にも」
 ――キミの平穏な日常と引き換えに
 ――彼女達の平穏な日常を守る事が出来るんだよ
 三上の言葉が胸に浮かんだ。こいつらの日常を守る。
 ある意味、弱いところをつかれたのかも知れない。
「わりぃ」
「そうか、残念だ」
 それから、逸見は夕日の差し込んで来た窓の外に視線をやったきり黙り込んだ。
 逸見の横顔は、あの時と同じ表情をしていた――俺が、剣道部を辞めた時と同じ怒りとも悲しみとも言えない、色々な感情が混ざって凝ったような――そんな顔。
 わりぃ……。
 俺は心の中で、もう一度逸見に謝った。
 キッチンからは陽気な桜の鼻歌が聞こえていた。